新日本プロレス真夏の祭典「G1クライマックス」が、いよいよ16日に札幌で開幕する(8月18日、日本武道館で優勝決定戦)。前回は2012年のオカダ・カズチカG1初制覇を取り上げたが、そこから10年間で内藤哲也(13年)、ケニー・オメガ(16年)、飯伏幸太(19年)ら3選手が初優勝を果たしている。スター選手がズラリと揃う現在の新日本を象徴する展開だが「1エース」が基本だった昭和期には「初優勝」は10年に一度の大事件とされた。

 現在のリーグ戦の原型は、言うまでもなく力道山が考案して1959年から始まった日本プロレス「ワールド大リーグ戦」であり、第1~5回は力道山が無双の5連覇。没後翌年の64年からは豊登(2回)、ジャイアント馬場(6回)、アントニオ猪木(1回)しか優勝していない。新星が登場するという発想はまだなく、厳然とした「格」が存在していたのだ。

 日プロ崩壊後、猪木が72年に新日本を旗揚げすると、74年から前身を継承する形で新日本版「ワールド・リーグ戦」がスタート。わずか4回で終わったものの、第1回から猪木が2連覇を果たした後は“世界の荒鷲”坂口征二が2連覇(76、77年)を達成している。今年デビュー55周年を迎える坂口だが、日プロ時代から通じて実にデビューから9年目のリーグ戦初制覇だった。

 とはいえ、実は坂口が初優勝を決めた第3回は猪木がリーグ戦に不参加。優勝者が猪木に挑戦するという形式が取られた。それでも坂口は得点10の2位タイで優勝戦出場者決定戦へ進出。首位は得点13のペドロ・モラレス、得点10でキラー・カール・クラップ、ビクター・リベラが並んだ。

 だが当時はハプニングだらけの新日本とあって、すんなり事は進まない。優勝決定戦(76年5月11日、東京体育館)の直前、猪木が7日高松大会でクラップの襲撃を受けて左肩にヒビが入る重傷を負ってしまう。6月26日日本武道館でボクシングの世界ヘビー級王者、モハメド・アリとの「格闘技世界一決定戦」を控えていただけに「大事を取って決勝戦出場は権利を放棄する」と発表したのだ。

 9日に骨に異常はなかったと判明したものの、発表した以上は撤回はできない。坂口は10日仙台大会で同点のクラップ、リベラと巴戦を行い連勝を決めて、クラップの凶器攻撃で額から大流血しながらモラレスとの優勝戦進出を決めた。猪木は「坂口が戦闘不能なら俺が優勝戦に出る」と辞退を撤回するも、坂口は傷も縫わず、11日の優勝戦へ出陣する。しかし猪木はやっぱりいつの時代も猪木だ…。

 本紙は1面で坂口初制覇を報じている。『坂口は額から大流血しながら、モラレスを鉄柱に叩きつけ、両者血ダルマだ。坂口は場外でペドロドロップと呼ばれる変型バックブリーカーで大ピンチ。しかしリングに戻るとブレーンバスター。怪力を生かしてリング下へ約3メートルの落差があるデッドリードライブで投げ捨てる。勢いに乗った坂口は場外でアトミックドロップ。モラレスは大の字。サッとリングに戻ると血ダルマのリングアウト勝ち。初優勝が決まった瞬間、明大の同期マサ斎藤が抱きつき、場内は割れんばかりの拍手が起きた。坂口は「今年を逃したらダメだと思った。来年は猪木さんを破って優勝して恩返ししたい」と語った』(抜粋)

 だが翌年も猪木はジョニー・パワーズとのNWF王座防衛戦に専念するためリーグ戦を回避し、再び優勝戦を辞退。坂口はマスクド・スーパースターを撃破して2連覇を達成した。荒鷲にとっては悲願の連覇だったが、猪木に次ぐ「ナンバー2」という座は変わらなかった。しかしそれはあえて坂口自身が選んだ道でもあり、時代は変わらなかったものの、当時から根強かった「坂口最強説」を主張するファンにとっては留飲を下げる結果となった。今年のG1で歴史を変える新星は出現するだろうか。 (敬称略)