【プロレス蔵出し写真館】東スポ紙面とWebで掲載されている、前田日明が一人称で語る連載が好評だ。今週からは、いよいよ新日本プロレスへ入門する話が語られる。

 入門した前田が、デビュー戦で山本小鉄の胸を借りたのは、今から44年前の1978年(昭和53年)8月25日、新潟・長岡市厚生会館だった。

 この日の試合前、トレーニング中にアントニオ猪木は「新人集合」と声を上げた。猪木の前に集まったのは平田淳ニ(後に淳嗣)、斎藤弘幸(現ヒロ斎藤)、原薗善由紀、そして前田明(後に日明)の練習生4人。この場で猪木は4人に、この日と翌26日(長野・飯山市民体育館)デビューさせると告げた(写真)。

 この日デビューを言い渡されたのは、前田と原薗の2人。 

 先陣を切ったのは180センチ、93キロの原薗。第1試合で荒川真(後にドン荒川)と対戦し3分4秒、体固めで敗れた。前田は第2試合で、〝鬼〟山本小鉄に果敢に向かって行くも5分42秒、リストロックに無念のギブアップ。当時の前田は194センチ、94キロ。たっぱはあるが、まだまだ細い印象だった。

 翌26日は平田が藤原喜明、斎藤は魁勝司(北沢幹之)を相手にデビューを果たした。ちなみに25日の第3試合に登場したのは、すでにデビューしていたが、芸能活動のためプロレスを離れていたジョージ高野。魁を相手にカムバック第1戦を行った。

 25日のデビュー戦を見守った猪木は、「これでプロの厳しさが少しはわかったろう。勝敗にはこだわらなくていい。誰もが通り抜けていく道。一戦一戦経験を積み、努力する姿勢が自分を強くする。3人(高野、前田、原薗)はいいライバルになってほしい。一緒にデビューさせて、ライバル心をあおる意味で今日にした」と語った。 

 3人とも「うれしさと怖さが半分半分」と意気込んでリングに上がったものの、「ゴングを聞いたら、何がなんだか、わからなくなりました」と完敗の弁。

 原薗は早々に引退したものの、猪木の期待通り、新日本の前座戦線は前田ら若手レスラーの〝バチバチ〟としたファイトでその日の興行を第1試合から盛り上げた。

 前田と猪木の関係性は深く、前田が旧UWFに走ったのも〝猪木の命〟を受けてということが知られている。

 ところで、前田は最近コラボしたノア・拳王のユーチューブチャンネルで「猪木舌出し失神事件(83年6月2日)」を語っている。前田は「シーツかぶされてストレッチャーに乗せられて、猪木さんの代わりに(病院まで)行ったのは俺」と拳王に話したが、これは前田の記憶違い。
 
 猪木が蔵前国技館から救急車に乗り込むところは、騒然とする中、多くの報道陣とファンも見ていた。そして、救急車を追走した東スポは、猪木が東京医大病院に到着し、1階の救急診療脳外科に運ばれるところを写真にも収めた。

 猪木は、翌日、大きなシーツをかぶされストレッチャーに乗せられ、車に移されて退院した。前田の言う、ストレッチャーに乗ったというのは、病院を出るとき。

 当時、ストレッチャーから車に運んだ若手の一人、新倉史祐は「(退院するとき)乗ったのが前田さんですよ。(病院にいない)猪木さんの代わりです」と証言した。

 前田が、猪木とすり替わったと語っているのは、退院するときだった(敬称略)。