ダンプ松本 長与千種とのある初体験を経て悪の道へ

2019年12月31日 11時00分

ダンプ20歳(右)、長与17歳。その後、日本中を熱狂させる抗争を展開するとは夢にも思わなかった(提供写真)

【ダンプ松本の壮絶人生「極悪と呼ばれて」:連載8】地獄のような日々を過ごしていた私に救いの手を伸ばしてくれたのはマミ熊野さん(元WWWAタッグ王者。池下のブラック軍団で活躍。1981年引退)だった。マミさんは当時、池下ユミさん(阿蘇しのぶとのブラックペアーでビューティーペアーと抗争を展開。後に熊野らとブラック軍団結成。81年引退)と組んで「ブラック軍団」を名乗るヒールだった。深夜のバス車内、私は毎日毎日皆が寝静まったころ、息を殺して泣いていた。見つかれば意地悪な先輩が「うるせえからバスで泣くな!」。外で泣けば「みっともないから外で泣くな!」。自分の居場所はどこにもなくなっていた。

 そんな時だ。席が前だったマミさんが小さな声で私を励ましてくれた。

「辞めちゃダメだよ。3年頑張れば、もういじめる人間も飽きてくる。後輩だって入ってくる。自分を捨てることはいつでもできる。でもプロレスを捨てちゃダメだ」。泣きながらうなずくしかなかった。そんな私にマミさんは小指を出して指きりをしてくれた。池下さんも優しかった。思えばリング上で憎まれる分、他人の心の痛みを分かってくれたのだろう。私が「ヒールになるしかない」と決意したのも当然だった。

 不思議なものだ。私はヒール(悪役)になりたかったのだが、会社は昔のジャンボ宮本さん(初代WWWAシングル王者。全女創設期のエース。76年引退)のような、大柄なベビーフェース路線を狙わせようという考えだった。この時期、千種は逆にヒールになりたかったらしい。会社は千種にも「ノー」という判断を下したのだから、人生は分からねえな。この時、私がベビーフェースになり、千種がヒールになっていたらどうなっていたか。あんな日本全国を巻き込む熱狂は、絶対に生まれなかったに違いない。ひょっとしたら女子プロレスも終わっていたかもな。

 私と千種が先輩のいじめの対象になった時期は長く続き、試合が組まれない日々も多かった。巡業から外されるシリーズもあり、道場で留守番という時が何度もあった。

 ひょんなことから「あまりにヒマだから一度ディスコというところに行ってみようよ」と意見が一致して、渋谷のディスコに繰り出した。熊谷市と長崎・大村市の田舎者2人組だ。確か1000円で飲み放題食い放題という文句につられただけで、色気も何もない。ゴムサンダルに全女のジャージー姿。サンダルでは入場できず、近くで980円のパンプスを買って何とか入場できた。

 踊りもせずお酒も飲まず、ひたすらジュースを飲んで食いまくる。ナンパ? されるわけねえだろ。すると場内が暗転してチークタイムが始まる。「わー、何だこの世界は? みんなキスしてるよ!」。食い気しかなかった私たちは、大人の世界に迷い込んだかのごとくい目を丸くして立ち尽くした。思えばいじめからの一時的な逃避だったのだろう。千種との夢のような“ディスコ初体験”は、数少ない青春の思い出だ。

 だがそんな無邪気な時代にはやがて終止符が打たれる。82年冬、私はデビル雅美さん率いる悪役軍団・デビル軍団の一員となったからだ。

☆だんぷ・まつもと=本名・松本香。1960年11月11日、埼玉・熊谷市出身。80年8月8日、全日本女子プロレス・田園コロシアムの新国純子戦でデビュー。84年にヒール軍団・極悪同盟を結成してダンプ松本に改名。長与千種、ライオネス飛鳥のクラッシュギャルズとの抗争で全国に女子プロ大ブームを巻き起こす。85年と86年に長与と行った髪切りマッチはあまりに有名。86年には米国WWF(現WWE)参戦。88年に現役引退。タレント活動を経て2003年に現役復帰。現在は自主興行「極悪祭り」を開催。163センチ、96キロ。

(構成・平塚雅人)

関連タグ: