【久保康生 魔改造の手腕(16)】現在の自分の頭脳のまま、体だけ全盛期の若いころに戻ったならどうなるのか。そんなことは起こりえないのですが、考えてみたことはあります。
ピッチングが分かったというか、その構造を理解して、簡単に投げられるようになったのは32、33歳のころでした。ピッチングというものはこれじゃないかというのが見えてきました。
無駄な動きをそぎ落とし、手首ももう何も使わず、最後はボールの重さのみでポンと投げられるようになった。35歳以降はそんな感覚でした。
35歳のシーズンだった1993年は34試合で53回、36歳では50試合で69回2/3、37歳は45試合、60回というイニング数を見ていると、年齢と反比例して投球術を体得していたことが分かります。
その当時は阪神に在籍していてチームも弱かったですからね。何でも屋として、ゲームのシチュエーションにかかわらず、本当にフル回転させてもらいました。
ヒジの手術も経験し、状態は万全とはいえませんでした。それでもイニングまたぎも当たり前の時代です。2、3イニングは当然のように投げていました。そういった中で「コツ」というものを覚えていったのだと思います。
そういったものが徐々に蓄積して現役最後に佐々木恭介監督(現大和高田クラブ監督)から近鉄に呼び戻してもらいました。96年は選手として21試合、31イニングを投げ防御率2・32。現役最終年となった97年は18試合に投げ、登録抹消されたあともコーチ役として一軍に帯同しました。そこで大塚晶文(中日投手コーチ=近鉄、中日、米大リーグ・パドレスなど)と出会い、彼へのコーチングの成功例ができ、僕の中で自信が生まれました。
そして、98年から近鉄二軍投手コーチ就任に伴い多くの若い才能と出会っていきました。その中で出会った一人が岩隈久志ですし、名前を挙げればキリがないですが多くの才能と接する機会に恵まれました。
伸びてくれた選手たちのおかげで私もコーチとして成長できました。やはり振り返ると97年の大塚の出発点が大きいかな。同じ年、小池秀郎(近鉄、中日、楽天)も15勝で最多勝を取ってくれたのもうれしかったですね。
あのプロ目線で見ても、素人目で見ても独特な大塚のフォーム。もともとはどっちかというと、オーソドックスな投法に近かったところを修正していったんです。一気にボールを右肩で担ぐようにトップに持っていってドーンと投げるあの投げ方。もうとにかく早く担げと。担ぎ上げてドンと投げる。角度をつけてね。あれで2006年のWBCの胴上げ投手にまでなったんですからね。
あの決め球、独特の縦回転の落ちるボールはスライダーなのですが、あの握りは私から大塚に伝えさせてもらい、同じ握りを岩隈も継承してるんですよ。
改めてですが、私の指導法がうんぬんではなく、ひと言でいうと運がいいんです。海外へ渡りメジャーリーグでも活躍できるような才能と出会うことができたのは私の財産です。
海外といえば、私は多くの外国人選手とも出会ってきました。個々については後々、詳しくお話ししますが近鉄時代のJ・Pことジェレミー・パウエル(近鉄で02年に17勝で最多勝)にはコーチングがフィットしました。
次回からは私のコーチングに関する選手へのアプローチをお話ししたいと思います。












