【高橋雅裕 連載コラム】勝つことよりレギュラーを取ることしか…

2020年07月07日 11時00分

1980年代の低迷期も守備力と明るさで乗り切った(左は欠端投手)

【高橋雅裕「道なき道の歩き方」(1)】低迷期の横浜大洋で苦渋を味わい、幾多の監督交代劇に直面。そんな中でも持ち前の明るいキャラクターで荒波を乗り越え、攻守に奮闘したのが高橋雅裕氏(55)だ。ユーティリティープレーヤー、スイッチヒッターとしてチームを支え、引退後は指導者として球団を渡り歩き、選手からの人望も厚い。現役時代は17年間のうち15年がBクラス…。深海に潜り続けたクジラ男? 高橋マサが今だから言えるホエールズ、ベイスターズの裏話、あの名選手の秘話をぶっちゃけます。

 僕は1982年に愛知の名古屋電気(愛工大名電)からドラフト4位で横浜大洋ホエールズに入団。14年間在籍し、97年からの3年間はロッテでプレーしました。現役を17年間続け、うち15年がBクラス。Aクラスは83年と90年(いずれも3位)の2回だけで、最下位が5回。毎年のようにBクラスを味わい、引退後にロッテ、楽天、横浜でコーチを5年間やりましたけど、ここでも同様でした。

 ホエールズにいたころはよく監督も代わりました。それは数字、成績が残せない僕らに責任があるし、申し訳ないと思っていましたよ。それを引きずっていてもいけないし、いつも新しい監督の考えを理解しよう、としていましたね。試合に勝てないつらさがある中で「どうして勝てないのかな」「何がヨソとそんなに違うのか」という疑問は常に持っていました。正直、キャンプでも他の球団と練習内容は変わらないし、編成のことを僕らがどうこう言ったって仕方ない。でも、疑問はあってもまだ若かったし「どうしたら勝てるのか」までは頭がいかなかった。それよりレギュラー取ることしか考えていないですよ。

「ぬるま湯体質」なんて言われますけど、負けたからって引きずって「今日もダメかな…」というような雰囲気はなくて、切り替えはうまくできていた。それが次につながらないという、その繰り返しでね。僕は性格的に明るかったし、負けて暗くなっても仕方ない。「お前はしゃべりすぎだ」って口にガムテープを貼られたこともありましたもん(笑い)。悔しくても悲壮感はいらないでしょう。選手間、コーチ間で考え方や意見の違いはあったと思います。ただ…ベテランの人や数字を残している人たちがチームのことで意見をぶつけ合っている場面を見たことはなかったです。

 ミーティングで試合の反省をしても、半分以上は空回り状態で、いい方向に向かっていなかったということです。リーダー的な存在もいなかった。高木豊さんにはかわいがってもらったけど、食事に行ったときにそんな話をするくらいで…。

 圧倒的に強かった巨人には同級生に川相昌弘や斎藤雅樹、西武には笘篠誠治なんかがいました。僕が川相に負けているとか思えなかったし、何が違うんだろうと…。当時はわからなかったですね。設備面にしたってこの環境でやるもんだ、って思ってましたから。巨人はルーキーなのにバットが支給されるとか、少し劣等感みたいなものは感じたことありましたけど(笑い)。そんなのは勝てない理由にはならないですよね。今と違ってまだ選手会も弱いし、球団に言われるがままというか、契約更改でも判を押しに行くだけですから。

 勝つときは大勝して負けるときはあっさりで、逆転はない。どうしたら巨人に勝てるのか、というと個人の力になる。試合で勝てないことより、みんな自分の成績、数字が上がらなくて苦しんでいました…。


 ☆たかはし・まさひろ 1964年7月10日、愛知県豊明市出身。名古屋電気(愛工大名電)で1981年夏の甲子園大会に出場。82年のドラフト会議で横浜大洋に4位指名され、入団。内野手として88年に全試合に出場。88年から89年にかけて遊撃手の連続無失策(390連続守備機会)を記録した。96年オフにロッテに移籍し、99年に引退。2000年からロッテ、楽天、横浜で守備、走塁コーチを歴任した。11年には韓国・起亜、16年から4年間はBCリーグ・群馬でも指導した。現在は解説者や少年野球の指導にも当たっている。