【第71代横綱 鶴竜力三郎の軌跡 一生懸命・音羽山親方自伝(22)】2021年3月。コロナ禍で東京開催となった春場所で土俵人生の大きな節目を迎えました。腰痛などのケガが続き、1月の初場所まで4場所連続で休場。師匠の陸奥親方(元大関霧島)と「次の場所はもう休めない」という話になり、この春場所に全てをかけて臨むことになりました。

 出場へ向けて調整は順調だったけれど、本番の直前になって左太ももに肉離れを起こしてしまった。ここで無理をしようとすれば、出場することはできたかもしれません。でも、左脚にテーピングを何重にも巻いて土俵に上がることは、横綱としてダメなんじゃないかと考えました。

 それに万全ではない中で2、3番取ってみて勝てないから「辞めます」というのも…。もともと負けることが本当に大嫌い。だから、最後に負けて終わることだけは絶対に嫌だなと。中途半端な気持ちで出場するぐらいなら、自分で終わりにした方がいいと感じたんですね。このタイミングでケガをしたことも体の方から「もう無理だ」というサインを出して自分に気付かせてくれたのだと思います。

 春場所11日目の3月24日に引退を届け出て、翌25日には会見に臨みました。この時は、解放されてホッとした気分。「ああ、これで明日、朝起きても相撲のことを考えなくて済むんだな」という気持ちでした(笑い)。実際に辞めてみて思ったのは、人間には休むことも必要なんだなと。横綱になると、簡単には休むことも許されない。それぐらい厳しい世界に身を置いていたのだと、改めて実感しました。

 その中で、もう十二分にやり切って悔いはなかったし、自分を褒めるべきじゃないかと思うぐらいでした。それこそ、自分が大相撲の世界に入った時、誰が横綱にまでなれると思ったか。入門した時から、同じ年代の力士たちには負けたくないという気持ちでやってきました。ライバルがいたからこそ、横綱になることができた。そう考えると、周りの力士たちには本当に感謝ですよね。

 一つだけ心残りがあるとすれば、陸奥部屋で優勝するという目標を達成できなかったこと。ケガで苦しんできた時期に支えてくれた部屋のみなさんや応援してくれる人たちに一度でも賜杯を抱く姿を見せたかったけれど、かないませんでした。でも、その後に霧島が2回も優勝してくれましたから(笑い)。みなさんも喜んでくれたし、それが一番良かったなと思います。

 引退したことで力士生活には区切りをつけましたが、コロナ禍の影響もあり、断髪式を行ったのは辞めてから2年後、23年6月のことです。そこで慣れ親しんだまげに別れを告げ、本当の意味で力士を卒業することになりました。