【多事蹴論83】希代のドリブラーをめぐる大争奪戦のてん末とは――。1992年に高校サッカーの名門鹿児島実業から横浜Fに加入したMF前園真聖はJリーグ元年(93年)に自慢のドリブルを駆使し、主力に成長。元アルゼンチン代表FWディエゴ・マラドーナと同じく、左耳にピアスをしていたことから「和製マラドーナ」と呼ばれた。94年5月には「ローマの鷹」と呼ばれたパウロ・ロベルトファルカン監督が率いる日本代表に初招集された。

 このA代表抜てきが“大騒動”のキッカケとなった。前園は西野朗監督が率いる96年アトランタ五輪を目指すチームのエース。日本が銅メダルを獲得した68年メキシコ五輪以来の本大会出場を目指していた。特にJリーグ発足により、若手の人気や知名度も高まり、28年ぶりの大舞台へ期待されていたが、所属の横浜Fとともに2つの代表チームで活動するのは大きな負担となっていた。

 95年、日本代表に加茂周監督が就任しても前園の兼任は続き、A代表の選手としてプレーしながら五輪チームの合宿にも参加した。まだ「A代表が最優先」という考えが明確ではなかった時代。2つの代表チーム間で前園の招集をめぐる“綱引き”が激化すると、日本サッカー協会は「どちらかの代表に専念させるべきではないか」と事態収拾に動き出した。

 後に前園は当時を振り返って「あのころはへとへとでしたね。それに西野さんからは『お前は五輪チームに絶対必要な選手だし、加茂さんにも妥協する気はない。お前からも加茂さんに(五輪代表チームを優先と)言ってくれ』と連絡がありましたから」と語っていた。実際に西野監督は前園を五輪チームのキャプテンに指名。28年ぶりの本大会出場に欠かせない存在であることを周囲にアピールしていた。

 一方、日本代表は各種大会で結果が求められていた時期。前園のドリブル突破が戦術の一つであり、初のW杯出場に向けたチームに必須な戦力だった。しかも前園にとって加茂監督は横浜Fに自身を誘ってくれた恩師でもあり、現状には苦悩していたという。最終的には両監督による話し合いの結果、前園はアトランタ本番まで五輪代表に専念することになった。

 前園は「子供のころから見てきた五輪には強いあこがれがありましたね。年齢制限(23歳以下)もあって同世代の仲間で戦うので責任感も感じていました。キャプテンだったこともあって自分の中では(五輪優先と)決めていたけど…」と告白。その上で処遇について方針が決まったことには「五輪(優先)って聞いてモチベーションも上がりましたね。使命感も芽生えていました」。

 この意欲を維持した前園率いるチームは96年3月に五輪アジア最終予選に臨み、28年ぶりの五輪切符を勝ち取った。(敬称略)