【プロレス蔵出し写真館】2022年10月1日に亡くなったアントニオ猪木(享年79)の展示会が、横浜市西区の「MARK IS みなとみらい」の1階グランドガレリアで開催中だ。題して「~おかえりなさい、猪木さん~燃える闘魂・アントニオ猪木展 in YOKOHAMA」。

 本日(25日)は最終日で午後4時に閉場される。

 さて、猪木といえば「プロレスに市民権を」と訴え、異種格闘技戦でプロボクシング世界ヘビー級王者のモハメド・アリ、ミュンヘン五輪の柔道金メダリストのウィリエム・ルスカなどと対戦し、世間の目を向けさせたといってもいいだろう。

 格闘技戦にはとんだ食わせ者もいたが、〝前代未聞〟のとんでもない相手が企画されたことがあった。

〝黒いヒトラー〟〝人食い大統領〟と称されたウガンダ共和国のイディ・アミン大統領だ。そしてレフェリーを務めるのはモハメド・アリ。

 今から45年前の1979年(昭和54年)1月25日、新宿の京王プラザホテルで内外の記者を集め、猪木とテレビプロデューサー康芳夫氏が会見。

 康氏は「アリ戦後、猪木選手の相手としては話題性、スケールからいってアミン大統領しかいない」と語り、前年の6月から計画したという。康氏からの打診を猪木側も了承。同じ回教徒としてアリを通してアプローチしてアミン大統領もOKしたという。

 6月10日、ウガンダの首都カンパラでの開催を予定。双方とも最終的合意に達し2月16日、ウガンダで猪木、アミン大統領、アリ、康氏が正式調印すると明かした。

「契約内容はレフェリーのアリにギャラ100万ドル(約2億円=当時)、猪木のファイトマネーが50万ドル、アミン大統領は公人であるためギャラはなく、純益の半分をウガンダの国庫に納める。中国を含む全世界のテレビ放映権料で総額1500万ドル(約30億円)の売り上げを予定している」(康氏)

 アミン大統領は身長193センチの巨漢で、東アフリカでボクシングヘビー級チャンピオンになったこともある。70年代のウガンダに軍事独立政権を樹立。独裁化が進むと約10万以上の国民を大量虐殺したとして悪名は日本にもとどろいていた。

 猪木は「受けようと思ったのは、世界的なイベントになるということ。プロレスというものを世界中に知らしめるいいチャンスだと思った。プロレスの看板を売るにも。やってマイナスとは思わない。とにかくやる以上は1分でKOする」と勝利宣言した。

 本当にやるのか? 誰もが半信半疑だった。 

 すると、2月1日にウガンダ共和国の駐日大使、S・T・ビゴンベ氏から日本の報道機関に書面が届いた。それには「まったくの偽りであり また完全な作りごとであります。これは一友好国の大統領の名誉を汚すものと思われます。」と手書きの文章が。

 新日本プロレスの新間寿営業本部長は「康氏が大統領と会い合意に達している」とあくまで強気の姿勢を貫いた。

ウガンダ駐日大使の書面
ウガンダ駐日大使の書面

 すると、この年、アミン大統領は反体制派のクーデターによって失脚してしまう。翌80年にはサウジアラビアに亡命。結局、この話は〝残念ながら〟お流れになった。

 試合が実現し、猪木が勝ってしまったら不測の事態も…と心配されていたが、それは回避されることとなった。

 ところで、猪木の異種格闘技戦の最後となったのは翌80年2月27日、蔵前国技館で行われた空手家、極真会館の〝熊殺し〟ウィリー・ウィリアムス戦。

 双方のセコンドが殺気立ち、極真側は150人の軍団が武器を携帯して入場していたという。観客もヒートアップし、大変な試合だった。

場外でにらみ合う猪木とウィリー(両端)に殺気立つセコンド(1980年2月、蔵前国技館)
場外でにらみ合う猪木とウィリー(両端)に殺気立つセコンド(1980年2月、蔵前国技館)

 結果的に迫力満点の試合となり、格闘技戦の有終の美を飾ることとなった(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る