2024年の東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝)は節目の第100回を迎える。大会を放送する日本テレビの元スポーツ局次長・坂田信久氏(82)は、1987年の第63回大会から「不可能」と言われてきた駅伝中継の実現に尽力。お正月の風物詩として〝名勝負〟をお茶の間に伝えてきたが、その裏には壮絶な苦労があった。
【箱根路がお茶の間に届くまで(4)】坂田氏が全国中継までの道のりを回想する上で、今でも印象に残っている出来事の一つが「人間羅針盤」だ。
箱根駅伝を放送するにあたり、当時はカメラで撮った映像を中継車の屋根に取り付けられた「マイクロマン」(電波の発射装置)で上空のヘリコプターに送信。そこから放送センターに電波を送るシステムを採用していた。しかし、悪天候時はヘリコプターを飛ばすことができない。そこで箱根山の山頂に複数の中継基地を設置。中継車から送られた映像を中継基地経由で放送センターに送れるように準備を整えた。
電波は直進する性質を持っており、正確に中継基地へ送らないと映像が途切れてしまうこともある。そこで1号車の「マイクロマン」を福王寺貴之氏が担当。悪天候時は山頂の中継基地など見えるはずもなく、さらに箱根の山道はカーブが連続し、方向感覚をつかむのは至難の業。何度もテストを重ねる中で「中継基地の方向はどこだ?」という感覚を身体に染み込ませ、自身が羅針盤となって電波を送るスキルを養った。
日テレにとって最初の全国中継となった87年の6区山下りでは、霧の影響でヘリコプターを飛ばすことができなかった。それでも、福王寺氏が「人間羅針盤」として放送センターに電波を送り続けた。選手たちが山を下りたところからは、再びヘリコプターが稼働。GPSなどの機器がない時代において、人間の〝原始力〟で難所を耐え抜いたという。
山という最大の壁を乗り越え、初めての全国中継は無事に終了。放送センターの全員が「やったぞ!」と歓声を上げ、涙を流すスタッフも…。長年の努力が実った瞬間だった。












