【石井和義の光と影#16】K―1がまさに「飛ぶ鳥を落とす勢い」となっていた1997年に誕生したのが、総合格闘技イベント「PRIDE」(※)でした。

ヒクソン(右)は高田の腕を狙った(97年10月)
ヒクソン(右)は高田の腕を狙った(97年10月)

 その立ち上げにも僕は携わっていたんです。現RIZINのCEO榊原信行氏…というのも他人行儀なので、普段通り“バラさん”と呼ばせてもらいます。最初に会ったのはバラさんが東海テレビにいたころ。知人の紹介で会うと「名古屋でもK―1をやってくれませんか」。それで「K―1 LEGEND」(94年12月、名古屋市総合体育館レインボーホール)が開催されたんです。

 彼は非常に誠実で優秀な社員で「この子は伸びるな」と思いつつお付き合いをしていました。そんな中「高田(延彦)さんとヒクソン(グレイシー)をやらせたいんです」と話を持ってきたんです。僕が表に出ない形でやりたいとのことでしたが、引き受けることにしました。それで最初に海外に交渉に行く費用とか、ヒクソンのファイトマネーの一部として5万ドル(約710万円)くらい振り込んだんです。

 それで「館長、決まりました」って報告が来て「良かったな」と話したけど、ファイトマネーを聞いたら1億円って…。ヒクソンが日本で戦った94年と95年の「VALE TUDO JAPAN OPEN(VTJ)」のファイトマネーは1試合で500万円くらいでした。だから「ナンボなんでも高すぎるやろ」という話になった。

 VTJ後、参戦交渉に当たった新日本プロレスの渉外担当が、ヒクソンにギャラを聞かれて指を1本立てたらしいんですよ。1000万円のつもりだったけど、これでヒクソンは「俺は100万ドル(約1億4000万円)の価値がある」と勘違いしてしまった。でも、さすがに払えないから「バラちゃん、もう1回交渉してきてよ」と話して60万ドル(約8500万円)になった。それで、その半分の30万ドル(約4260万円)をK―1から振り込んだんです。

 ただ、その後、交渉していると聞いていた日テレでの放送が決まる気配がない。さらに会場も僕らは「横浜アリーナがちょうどいい」って言っているのに、高田の希望により東京ドームでやることになった。そういう話のすれ違いもあって「俺は降りる」ってなったんです。30万ドル? 次のオーナーに払ってもらいましたよ。

 ただ、これはPRIDEやバラさんと、僕の関係の始まりにすぎません。ここからいろいろありましたが、その話はまたいずれ…。次回からは印象的だった選手や関係者に焦点を当てたお話ができればと思います。

 ※ 1997年10月11日、高田VSヒクソンをメインに「PRIDE.1」として旗揚げ戦が行われた。

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