【マンマーク サムライDF水本裕貴の奇跡(8)】 キャプテンとして臨んだ2008年の北京五輪は1次リーグで敗退。自分の力不足を痛感し「もっと成長しなければ」という強い気持ちが芽生えました。シーズン途中で移籍した京都では加藤久監督の下、08、09年とJ1残留を決めます。10年には公式戦全42試合出場を果たしましたが、チームは序盤から低迷し、J2降格となります。

 J1に残れなかったのは残念でしたが、これまでと同じようによりレベルの高い舞台で「自分を磨きたい」という思いは捨てられません。京都からは信じられないほどの高額年俸を提示していただきました。ですが、自分自身をさらに向上させるため、大幅ダウンながらもオファーをいただいた広島入りを決意します。チームを率いるミハイロ・ペトロビッチ監督はオーストリア1部グラーツでイビチャ・オシム監督のコーチを務めていた“まな弟子”です。僕が千葉時代に指導を受けたオシム監督と考え方も似ていましたし「何か縁があるな」とも感じていました。

 広島ではシーズン序盤から主力として出場していた中、同年5月7日の甲府戦でまさかのアクシデントに見舞われます。セットプレーの際、競り合いで頭部を強打。瞬間的に「ヤバい」と感じましたね。しかし試合中でアドレナリンが出ていたのでプレー続行。記憶はおぼろげですが、すでに2人交代し、自分が下がれば、3つしかない交代枠が「なくなるな」とも考えていました。

 後半に入ると、気分が悪くなり、3枠目を使われると自分が下がったときに数的不利になる。そこで「もうムリ」と交代を要請。そのままスタジアムから救急搬送されます。診断は頭蓋骨骨折および急性硬膜外血腫。すぐに開頭手術を受けました。自分では覚えていませんが、同僚の佐藤寿人さんと西川周作が病院に来てくれ、僕がベッドで目を覚ましたときの第一声が「試合はどうなった?」だったそうです。

 後に担当ドクターから「今だから言えるけど、何の後遺症もなく、生きていることが奇跡だ。あと10分遅ければ、死んでいた」というほどの重傷でした。人間は死の淵を経験すると、性格や考え方が「変わる」とよく言われますが、この負傷をキッカケに自分自身もすべての面で大きく変化したと感じています。

 それまでは「うまくなりたい」「成長したい」と、サッカー中心の生活をしていましたが、生死をさまよってからは気負いがなくなり、考え方も柔軟になりました。僕の人生の中でも非常に大きな出来事でした。