【マンマーク サムライDF水本裕貴の奇跡(5)】市原に入団して2年目の2005年、チーム呼称は「千葉」に変更になりました。後に日本代表を率いるイビチャ・オシム監督のもとで開幕スタメンをつかみ、リーグ15試合に出場。自分は決勝に出ていませんが、チームはナビスコカップ優勝を果たします。06年にはリーグ25試合に出場し2年連続で勝ち上がったナビスコカップ決勝はスタメンとして2連覇に貢献できました。

日本代表を率いたオシム監督
日本代表を率いたオシム監督

 大きな変化はドイツW杯後、オシム監督が日本代表指揮官に選出されたことです。日本サッカー協会のキャプテンだった川淵三郎さんが口を滑らせて、メディアで代表監督就任が報じられたころ、チームは岐阜合宿をしていたのですが、オシム監督はトレーニングの指示を出すことはなく息子のアマルコーチが練習を指揮。オシム代表監督が決定するのは時間の問題と感じていました。

 僕が日の丸を初めて背負ったのは三重高校3年のとき、U―18日本代表でした。05年にはU―20代表として世界ユース選手権(オランダ)に出場しました。千葉で同期の水野晃樹をはじめ西川周作、本田圭佑、平山相太、森本貴幸らがメンバーで1次リーグを突破。決勝トーナメント1回戦でモロッコに敗れましたが、08年北京五輪に向けて意欲を高めていました。

代表初選出の水本(左)と競り合う巻(中)と山岸(06年10月)
代表初選出の水本(左)と競り合う巻(中)と山岸(06年10月)

 そんな中で、オシム監督が日本代表を率いることになると、僕もA代表に抜てきされ、06年10月のキリンチャレンジカップ・ガーナ戦でデビューします。念願の青いユニホームに袖を通せてうれしかったのですが、周りはGKの川口能活さんをはじめテレビで見ていた選手ばかり。達成感を感じる余裕もなくて「もっとレベルアップしないと」と、危機感しかありませんでした。

 A代表に選ばれていましたが、もともとは北京五輪世代。反町康治監督と臨む五輪アジア予選を突破するため、07年はU―22日本代表チームに専念することになります。夏から始まった最終予選はサウジアラビア、カタール、ベトナムと同組で、世界ユース選手権を戦ったメンバーを中心にかなり苦戦したものの、最後の試合でサウジアラビアに引き分けて出場権をつかむことができました。

 そうした代表での活動が評価されたようで、オフには多くのクラブからオファーが届き、08年シーズンに向けて初めての移籍を決意します。