星野さんにはよく怒られた。1987年シーズンから91年シーズンまでの第1次星野中日の担当記者時代はそれこそ何回、怒鳴られたか数え切れない。取材拒否もよく食らった。長いときは3か月くらい口も利いてもらえなかったが、いつも最後は星野さんのほうから突然、まるで何事もなかったかのように話しかけられて“解除”となった。

 そんな星野さんへの取材で思い出すのは“トレード計画話”だ。「山口! 何かいいアイデアはないか!」。あのころ、顔を合わせるたびによく言われた。アイデアとはトレード計画のこと。「中京スポーツ(東京スポーツ中部版)には選手のトレード原稿がよく載るからな」ということからだったが、おふざけばかりではなかった。

 監督に就任したばかりの86年オフ、ロッテ・落合と中日・牛島、上川、桑田、平沼の1対4の世紀のトレードをまとめた人。「俺は365日、戦力補強のことを考えている」と言い、真剣な表情で“トレード計画話”をしたことが何度もあった。

 忘れられないのは91年春の沖縄キャンプでの出来事だ。いつもの話が大発展。何と星野さんは記者に対して中日・落合と巨人・原のトレードプランを口にしたのだ。当時、落合放出説はよくスポーツ紙をにぎわせていた。そんななかでの発言。しかも相手が巨人の大看板選手だけに、ただただ驚くしかなかったが、ここで星野さんは急に記者に顔を近づけ、小声になってこう言った。「だけど、読売が辰徳を出すわけないやないか」。幻の世紀のトレードプラン? 実現しないとくぎを刺された以上、記事にはできなかったものの、本当に補強に関して貪欲な監督だと思ったものだ。

 実際、星野さんは、いくつもトレードを成立させた。「(他球団へ)出すことが、その選手のためになると思うからやったんだ」。選手を生かすためのトレードであることが前提条件だった。

 担当記者として87年の星野中日1勝目を見た。88年の星野中日優勝を見た。若き闘将の姿はインパクト大だった。2003年の星野阪神優勝も再び担当記者として経験させてもらった。年は取っても、やはり闘将だった。そして、どの時代にも大胆な補強策があった。

 いつだったか、京セラドームでお会いしたとき「2020年の東京五輪でも監督の力が必要ですよ」と話したら「バカなことを言うな。その時はもうこの世におらんわ」と笑顔で返された。そう言いながらも絶対、長生きされるはず、と思っていたのに…。まだまだ野球界には欠かせない方だったのに…。

(1987~91年中日、2002~03年阪神担当 山口真司)