【天龍源一郎vsレジェンド対談「龍魂激論」(3=後編)】ミスタープロレスこと天龍源一郎(70)がマット界のレジェンドと語り合う「龍魂激論」では、“燃える闘魂”アントニオ猪木氏(76)との約26年ぶりの“再戦”が実現。故ジャイアント馬場さんや新日本プロレスのオカダ・カズチカについて激論を交わした前編に続き、後編では日本プロレス時代の秘話、そして伝説の一騎打ち(1994年1月4日、東京ドーム)の舞台裏が明かされた。

 ――前編では猪木さんが大相撲に入っていたら元横綱千代の富士クラスの大力士になっていたはずという天龍さんの言葉がありました

 猪木:入門した当時は、相撲から転向してきた人がほとんどでしたからね。師匠の力道山はもちろん、芳の里さん、林(牛之助)、上田(馬之助)…。大熊(元司)もそうだったかなあ。

 天龍:大熊さんは全日本プロレスでも一緒でしたよ。伊勢ヶ浜部屋ですね。

 猪木:相撲といえばこの前、横綱の白鵬と話したら「戦っていると、もう一人の自分が上から見ているんだ」という話になった。彼も「そういうことはありますね」と同じことを言ってました。そんな状況で、上から別の自分が何万人のお客さんを「ワーッ」と沸かせているのを見るのは快感でしたね。

 天龍:前からお聞きしたかったんですが、当時の日本プロレスの道場では誰が一番強かったんですか。 

 猪木:入門した時は大木(金太郎)さんが一番年上で強かった。でも半年たったら、こっちも強くなってスパーリングでも決められなくなった。馬場さんとはちょっとやったことがあるのかな。(209センチ、135キロの)あの体でスクワットを1000回こなすんだから、グラウンドの練習で上になられると体がふわっと振らされてしまってね。今日は悪口は言いませんよ、ムフフッ。

 天龍:フフフ…。

 猪木:あと鹿児島で力道山が大荒れした時、相撲出身じゃないけどマンモス鈴木さん(198センチ、120キロ)が「すいません! わしが悪いんです!」と場を収めようとした。頭を下げるたびに力道山が「バカヤロー!」ってビール瓶で頭を殴るんです。その後は「すいません!」「バカヤロー!」の連続で、割れたビール瓶が7本ですよ。翌日に額を見たらちょっとした傷があるだけ。あの人は化け物だったなあ。

 天龍:今の相撲界なら大問題ですよね。

 猪木:あんなの当たり前でしたけどね。

 ――1994年1月4日東京ドームでのシングルで、天龍さんは日本人で唯一「BI砲に勝った男」となった。当時の猪木さんは参議院議員で多忙を極めていたはず

 猪木:実は師匠の力道山が、引退したら参院選に出馬しようとしていたのを知っていたんですよ。だからいつもどこかにそういう気持ちはあった。俺は議員になってからは年間数試合になってしまったけど、毎日必ず5キロ、10キロは走ってコンディションはつくっていました。あとは時間があるとカール・ゴッチさんに教えられた縄跳び、ゴム板、トランプ(めくった数字でトレーニングのセット回数を決める)で体はつくっていた。

 天龍:すごいですね。激務が続いているはずなのに、ビシッと体を仕上げてこられて驚いたのを覚えてます。オリジナルの卍固めは手足が長いこともあって、密着するようにピタッとフックが決まっていた。

 猪木:持って生まれた手首足首の柔らかさですかね。

 天龍:スリーパーがくるのは分かってたけど、落ちて(失神して)しまったのは全然自分では分からなかった。リング下で長州力に顔面を張られて「起きろ!」とリングに押し込まれ「あっ、俺落ちたのか」と気がついた。落とされた瞬間、指が脱臼して逆に曲がった。「あっ」と焦って自分で関節を戻した。二度とやりたくないというのが本音ですね。

 猪木:プロとは個性で稼ぐもの。その点、天龍というプロレスラーはしっかりキャラクターを確立していましたね。

 天龍:89年2月ですかね。ロサンゼルスのレストランで会食させていただいたことを覚えています。佐藤昭雄(当時全日本)の仲介でしたかね。初めて食事するのに猪木さんは「レスラーたる者は…」とかスケールの大きな話をしてくださって、びっくりしました。今日はあの時を思い出してとても感慨深いです。

 猪木:一日一回、大きなことで笑わないと、だんだん声も元気がなくなる。最近は声も出していないし恋もしていない(笑い)。でも3月には世界に向けて「バカヤロー!」と大勝負を仕掛けますから期待してください。年を取っても夢とロマンは追い続けますよ。

 天龍:期待しております。本日はありがとうございました。