東京五輪レスリング男子グレコローマン77キロ級3位決定戦(3日、幕張メッセ)で、屋比久翔平(26=ALSOK)がゲラエイ(イラン)をテクニカルフォールで下し、銅メダルを獲得した。日本の中量級はこれまで海外の厚い壁に阻まれてきた。日本グレコ史上、最も重い階級での五輪メダルゲットとなったが、この快挙をひそかに〝予言〟していたのが新日本プロレスの永田裕志(53)。屋比久とミスターは五輪にまつわる〝数奇な運命〟でつながっていたのだ。

 ザッツ・グレコの大技がさく裂した。豪快なバック投げにボディースラムで相手を圧倒。1968年メキシコ大会で優勝した宗村宗二の70キロ級を上回る、日本グレコで最も重い階級の五輪表彰台に立った。「少しグレコの魅力ってものが見せられたんじゃないかなと思っています」と胸を張った。

 屋比久の激勝に「やったね。本当におめでとうと言いたい」と大喜びなのがミスターだ。実は、92年バルセロナ五輪出場を目指し、永田がグレコ82キロ級でシ烈な国内代表争いを繰り広げたのが屋比久の父・保さんと小林希さんだった。しかし、五輪アジア予選の出場権をかけた国内最終選考会で保さんは大ケガを負い、小林さんも、予選に出場した永田も、夢舞台出場はかなわなかった。

 同じ目標へ切磋琢磨した3人のライバル物語は息子にも語り継がれていた。「親父は『オレはプロレスラーと試合していたんだぞ』とか『日体大で50キロのダンベル使って筋トレしていたやつ(小林さん)と戦っていたんだぞ』と自慢げに話していた」(屋比久)

 屋比久と永田の縁はその後も続く。永田はプロレス転向後のある年の1月、同じレスリング出身の盟友・中西学とともに沖縄のビーチで雑誌の取材を受けていた。すると冬の海の中から「何、やってんだ?」と素潜りしていた男性が声をかけてきた。それが保さん。そのまま夜は宴会に連れていかれた。

 永田によれば「泡盛をしこたま飲まされたのに、翌日は少年少女大会であいさつをしてくれと頼まれて。二日酔いの状態で子供たちを激励した。その時、紹介されたのが小学生の翔平くん。ずいぶん強い選手だと聞いていたから『頑張れよ』って声をかけた」。

 二日酔いのミスターとの初対面から十数年後、翔平少年は見事に父の夢をかなえ、五輪出場権を獲得した。その際、永田をハッとさせたのが弟・克彦のひと言だった。

「あの時の3人の関係者が結局、全員五輪に出ることになったね」

 克彦は2000年シドニー五輪に出場して銀メダル。小林さんの教え子で、今大会で屋比久のセコンドに就いた松本隆太郎コーチが12年ロンドン五輪に出場し、銅メダルを獲得した。永田は大会前に「3人の不思議な縁だよな。翔平くんは世界で通用できるパワーが十分ある選手。翔平くんも、メダルが取れるかもしれない」と3人目のメダルを〝予言〟しており、その通りになった。

 屋比久の努力に加え、メダルに導かれる運命だったのかもしれない。屋比久も「自分のベースとなる前に出るレスリング、リフト技も親父から最初に教わった。そのベースを生かして東京五輪の舞台に立って、最後に勝てた。本当に感謝しています」と父へ言葉を送った。さまざまな思いが込められた、歴史に名を残すメダルとなった。