館長の名は永遠に――。プロレスラーで空手家の誠心会館館長、青柳政司さんが6日に65歳で死去したことが明らかになり、マット界は悲しみに包まれた。邪道・大仁田厚との抗争からFMWの旗揚げ戦に出場したことで、本格的にプロレスのリングに参戦。伝説の名ユニット「平成維震軍」の立ち上げメンバーでもあった。縁の深い大仁田、獣神サンダー・ライガー、そして愛弟子の齋藤彰俊(ノア)が故人の功績をたたえるとともに哀悼の意をささげた。

 1990年からは新日本プロレスに参戦し、ライガー、越中詩郎らとの抗争後に反選手会同盟を経て伝説のユニット・平成維震軍で活躍。数々の激闘を繰り広げたライガーは「まだお若いですよね。そういう話も全然耳に入ってこなかったので…。本当にびっくりしてます」と驚きを隠せなかった。

 一番思い出に残る試合は、90年6月12日の福岡大会で行った異種格闘技戦だ。覆面はぎを仕掛けてきた青柳さんに激高したライガーは、試合中に自らマスクを脱ぎ捨て大荒れの展開になった。

「マスクに手を出してきたので『こういう試合してるのにそんなことしてる場合かよ』と思って。『欲しいならくれてやる。その代わりお前をぶっ潰すよ』っていう感じで投げつけて…。あれはもうケンカですね。今、思うと恥ずかしい。あの時はいろんな人に『自分でマスク取るバカ、いねえだろ』って言われたんだけど。もしかしたら青柳さんの手のひらに載せられたのかもしれないね」

 リングの上では文字通りの潰し合いを繰り広げたが、それは純粋に互いに譲れない思いをぶつけ合った結果だった。「青柳さんなりに自分のプライドというか『負けない』という当たり前の気持ちが前面に出ていた。僕は純粋に『プロレスをなめるなよ』っていう気持ち。青柳さんは青柳さんで『空手をなめるなよ』って。そこに変なものはなくて、純粋に『俺が強いんだよ』って見せたかったんですよね」

 92年の誠心会館の看板をかけた抗争でも、青柳さんの空手家としての意地が見えた。齋藤は小林邦昭に敗れ、また青柳さんは越中に敗れ、道場の「顔」ともいうべき看板を新日本に奪われた。

 齋藤は「プロレスラーとしての青柳政司ではなく、館長としての一番の思い出はあの看板の時。空手でも会社でも看板を取られるということは一大事。その中で館長が自分に託してくれたんだなという思いがあります」と語る。

 2015年5月に青柳さんはバイクでツーリング中、スポーツカーと衝突。意識不明の重体で搬送され、右ヒザから下は30箇所の粉砕骨折を負った。だが、大仁田がお見舞いに訪れると「大丈夫、大丈夫。そのうちプロレスのリングに上がるからさあ」と気丈に語り、17年10月の電流爆破戦で復活。盟友の引退ロードに花を添えた。大仁田は「本当に復帰するとは思わなかった。空手家なのにプロレスをこよなく愛していた」と語る。

 ライガーは「リングを下りたらピシッと礼儀はされてました。真っすぐな人だったですね。人格的には素晴らしい人でしたよ」と話し「今は取りあえずゆっくりお休みください。僕もそう遠くない時間でそっちにいくと思うので、その時はまたスパーリングしましょうよ」と呼びかけた。青柳館長が残した功績はプロレス界で永遠に残り続ける。

☆あおやぎ・まさし 1956年12月27日生まれ。愛知・豊田市出身。23歳の時に空手道場「誠心会館」を設立し、FMW旗揚げ戦となった89年10月6日の愛知・露橋スポーツセンター大会で大仁田厚と対戦しプロレスデビュー。90年から新日本プロレスに参戦し、同年度の「プロレス大賞」新人賞を受賞。92年には平成維震軍の前身、反選手会同盟で越中詩郎らと最優秀タッグ賞を受賞した。172センチ、80キロ。