【昭和~平成 スター列伝】猪木 マジソンスクエア・ガーデン初登場で日本人初の快挙

2021年09月20日 10時00分

猪木はモンティを強烈なスリーパーホールドに捕らえる(東スポWeb)
猪木はモンティを強烈なスリーパーホールドに捕らえる(東スポWeb)

 新日本プロレスは2019年4月6日(日本時間7日)に、米国・ニューヨークのマジソンスクエア・ガーデン(MS・G)で初めて大会を開催。20年8月大会は新型コロナウイルス感染拡大のため延期となったが「格闘技の殿堂」に初進出を果たしてプロレス史に新たな歴史を刻んだ。

 1960年代は格闘技の聖地として敷居は高く、出場できる選手はごくわずかだった。プロレスの祖・力道山も出場の機会に恵まれず、75年まではジャイアント馬場、芳の里、マンモス鈴木、ストロング小林らが出場した程度だった。

 61年10月の米国初遠征でMS・Gに初出場している馬場は、2度目の米国遠征となった64年2月17日、日本人として初めてメインで“人間発電所”ことブルーノ・サンマルチノのWWWF(現WWE)世界ヘビー級王座に挑戦する快挙を達成している。

 そして75年12月15日には“燃える闘魂”アントニオ猪木が、待望のMS・G初出場を果たす。馬場に遅れること14年。さらには73年3月19日蔵前国技館の「世紀の一戦」で破った小林も、猪木に敗戦後は単身米国に渡って74年9月にフィラデルフィアで人間発電所の王座に挑戦。10月にはMS・Gのマットを踏んでいる。心中には期するものがあっただろう。

 日本人の初出場でのメイン登場は史上初の快挙だった(馬場は2度目の遠征)。当初は“黒い毒グモ”アーニー・ラッドと対戦予定だったが、当日になって足首を負傷。フランク・モンティという中堅選手に変更となった。猪木は気合満々、2万2000人(超満員)の観衆が見守る中でリングインしたが、何とここで怨敵の“狂虎”タイガー・ジェット・シンがリングサイドに乱入。「猪木とやらせろ」と暴れ始めた。すごい執念だ…。

 シンが警官隊と他の選手に連れ去られると、猪木はスピードでモンティを圧倒。モンティは当時存在したWWWFランキング4位で187センチ108キロと均整の取れた好選手だったが、猪木の相手ではなかった。スピードで翻弄するとヘッドロック、パンチからドロップキック一閃。最後はバックドロップで鮮やかな3カウントを奪った。試合後は再びシンが乱入するハプニングもあったが、猪木の独壇場だった。

 それでも「人間発電所戦へ一歩前進も厚い壁」との見出しとともに、本紙は厳しい論調でサンマルチノ戦について報じている。

「猪木がMS・Gでサンマルチノに挑戦できない理由は簡単だ。MS・Gはプロレスの殿堂で総本山であるため、個々の実績が必要だからだ。二度、三度とニューヨークのファンに顔を売らなければならない事情がある。しかしあの“人間風車”ビル・ロビンソンですらMS・G初登場の際はメインを外された。この日の勝利が猪木にとってサンマルチノ戦への第一歩となる」

 結局、人間発電所への挑戦は実現せずに終わる。それでも70年代後半から80年代にはWWWFとのパイプは強固となり、猪木は何度もMS・Gに出場するようになった。78年1月には藤波辰巳(現辰爾)がWWWF世界ジュニアヘビー級王座を奪取する快挙も実現した。

 人間発電所との王座戦はかなわなかったが、猪木はその2代後の王者ボブ・バックランドと歴史に残る名勝負を何度も展開している。90年代以降はWWEに日本人選手が多く参戦。MS・Gにも出場したため希少価値はなくなったが、当時は現代以上に「夢の大舞台」だったのだ。(敬称略)

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