新間寿氏が今こそ明かす「猪木VS前田」消滅の真相 猪木に相談されて私が止めた

2020年01月26日 11時00分

新日本プロレスに入門したばかりの前田が猪木のセコンドに就く。短髪が初々しい(1978年3月、和歌山)

【過激な仕掛け人・新間寿氏の悠久のプロレス史】元新日本プロレス専務取締役営業本部長で、昨年のWWE「ホール・オブ・フェイム」のレガシー部門で殿堂入りした新間寿氏(84)がマット界を振り返る「悠久のプロレス史」、今回はいよいよ格闘王・前田日明氏(61)の登場だ。前田氏の1977年新日プロ入団から第1次UWF合流にも深く関わった“過激な仕掛け人”。当時ファン垂涎のカードだったアントニオ猪木―前田戦が一度は発表されながら、幻に終わった真相も激白する。(随時掲載)

 新日本プロレス旗揚げから5年たった1977年。アントニオ猪木社長の命を受けた新間氏は、大阪のロイヤルホテルにいた。佐山聡(後の初代タイガーマスク)が「大阪にケンカの強い、でかいやつがいますよ」と推薦したからだ。「肉が食べたい」という前田のリクエストで地下のステーキハウスに連れていくと、300グラムのステーキ2枚をペロリと平らげた。

 すると、ポケットをごそごそし始め「もう一枚食べたいのですが、いくら払えばいいですか」。その言葉を聞いて笑顔になった新間氏は「好きなだけ食え」と促した。将来の夢を聞くと前田は「ボクサーになりたい」と即答。「うちはモハメド・アリと仲良くしているから実現させてやる。その前に体をつくるために新日本プロレスに入れ。2年か3年たったら必ず紹介してやるから」との約束を交わし、上京させた。対面した猪木も「体も大きいし、大事に育てる」と太鼓判を押した。

 新間氏:ポケットに手を突っ込む姿を見て、これは正直な人間だなと思った。ただ真面目すぎるところがあってね。山本小鉄(故人)の付け人を務めたんだけど、夜に帰ってこなかった時があった。翌朝に部屋を「時間ですよ」とドンドン叩いているんだよ。永源遙(故人)から「もういいから」って怒られてた。前田は「おかしいなあ。山本さんは何時に起こせって言ったのに」と言ってたけど、返事がなければ部屋にいないという考えが及ばなかった。

 78年8月25日の山本戦(新潟・長岡市厚生会館)でデビュー後はメキメキと頭角を現し、82年2月には英国武者修行へ。翌年4月の凱旋帰国後は「七色のスープレックスを持つ男」としてIWGP決勝リーグ戦に欧州代表として出場した。藤波辰巳(現辰爾)とのコンビでMSGタッグリーグにも抜てきされた。

 新間氏:「スープレックスできるか?」と聞いたら「前後左右、どんなスープレックスでもできる」と言うもんだから「7種類できるか? レインボースープレックスだ」と言った。ちょっと形を変えれば新しいスープレックスになるんだからね(笑い)。

 その後、新間氏は「クーデター騒動(※)」で新日プロを退社。退職金の3000万円をもとに第1次UWFをスタートさせた。前田に「新しい団体をやるので、お前をトップにしたい」と声をかけると「新間さんにプロレスに入れてもらったのでいいですよ」。数百万円を渡した。84年には親交のあるWWF(現WWE)のオーナー、ビンス・マクマホン・シニア(故人)に頼み、前田を米国に向かわせた。3月25日、ニューヨークのマジソンスクエア・ガーデンで、新設されたWWFインターナショナルヘビー級王座を獲得した。

※猪木の事業アントン・ハイセルに新日プロから資金が流出していることに危機感を持つ幹部、レスラーが決起したとされる1983年夏の騒動。社長の猪木、副社長の坂口征二、専務の新間氏が退陣した。

 新間氏:(UWF旗揚げ前に)前田にハクをつける意味もあった。アントニオ猪木に匹敵する選手をつくるには、前田以外にはいなかった。

 UWFの会長だった新間氏は新日プロを放送するテレビ朝日に掛け合い、月2000万円、年間2億4000万円をUWFに提供する約束を取りつけた。さらに毎週の新日プロの放送の中で「UWFアワー」として前田のシーンを5分流してくれ…と依頼。だがUWFの選手・スタッフの反対に遭い、この前田売り出し案は消えた。

 85年12月、UWF勢は業務提携という形で新日プロへの復帰を発表。翌86年2月には猪木への“挑戦”をかけてUWF勢は代表者決定戦を行った。だが前田は藤原喜明に敗北。2月6日の両国国技館で藤原が猪木の裸絞めで落とされると、たまらず乱入した前田は猪木に蹴りを見舞った。そしてついに希望が通り、3月26日東京体育館での猪木との対戦が発表される。ここで猪木は、すでに新日プロを離れていた新間氏を都内の全日空ホテルに呼び出した。2人の会談が、前田の運命を変えた。相談を受けた新間氏は「プロレスの試合になりますか?」と忠告。試合は実現しなかった。なぜか?

 新間氏:(同年4月にケンカ試合になった)アンドレ(ザ・ジャイアント)の試合があったんだよね。そういう危険性を前田は持っている。自分はアントニオ猪木になろうと思っているから、ファンの夢を壊すことになっていた。今でも実現しなくて良かったと思ってる。どっちが強いということではなく、試合になっていない。それを止めたのは私だという自負心はあります。

 その後に新日プロを離れた前田は、第2次UWF、リングスと本格的な格闘技路線を歩む。猪木との一騎打ちがかなわなかったことが、格闘王誕生への分岐点となったのかもしれない。

☆まえだ・あきら 1959年1月24日生まれ。大阪市出身。78年8月に新日本プロレスでデビュー。84年に第1次UWFに参加後、88年に第2次UWFを旗揚げ。91年にはリングスを立ち上げた。99年2月に「霊長類最強の男」と呼ばれたレスリング五輪3連覇のアレクサンダー・カレリンとの一戦で現役を引退。その後も海外との人脈を生かして数々の強豪を招聘し、2008年3月からアマチュア格闘技大会「THE OUTSIDER」を主宰する。現役時は192センチ、109キロ。