吉永小百合(71)とトニーズのヒット曲「勇気あるもの」(1966年)をめぐる仰天証言が浮上した。同曲は故佐伯孝夫氏の作詞とされてきたが、実は作詞家で直木賞作家のなかにし礼氏(78)の作詞だったという。BSフジの音楽ドキュメンタリー番組「HIT SONG MAKERS 栄光のJ―POP伝説」(12月4日午後9時)のインタビューで元ビクターのディレクター・武田京子氏(86)が重大証言した。50年ぶりに明るみに出た“ゴースト事件”の真相と当時の「日本のレコード業界の悪習」とは――。

 J―POPの歴史を飾った数々のヒット曲を世に送り出した作曲家・作詞家にスポットを当てる同番組が今回、なかにし氏を特集した。本人のインタビューを中心に「天使の誘惑」(68年、黛ジュン)、「今日でお別れ」(69年、菅原洋一)、「北酒場」(82年、細川たかし)で3度レコード大賞を受賞するなど、昭和のヒットメーカーとして一世を風靡したなかにし氏の数々のヒット曲を取り上げ、(秘)エピソードを紹介する。

 そのなかで、50年ぶりに意外な新事実が明かされた。吉永とバンドのトニーズが歌って大ヒットした「勇気あるもの」は国民栄誉賞を受賞した故吉田正氏作曲で、作詞は「有楽町で逢いましょう」や「潮来笠」「いつでも夢を」などで知られる巨匠の佐伯氏とされていたが、実はなかにし氏の作詞だったというのだ。

 同曲を手がけた元ビクターのディレクター・武田氏が番組のインタビューに答えて初めて明らかにした。武田氏は当時、吉永がメーンの音楽番組のテーマソングを担当することになり、その曲の作詞を佐伯氏に依頼した。

 ところが、ぎりぎりになっても歌詞が上がってこなかったため、当時フランスのシャンソンの歌詞の斬新な翻訳で注目され、歌謡曲の作詞も始めていた若手のなかにし氏に急きょ依頼。なかにし氏は「勇気」というタイトルの歌詞を作詞したという。

「佐伯さんに見せたところ、じーっと読んで『この青年は素晴らしい才能がある。将来大きな仕事をするよ』と言って、タイトルだけ(『勇気あるもの』に)変えて、詞を全然添削しなかった」(武田氏)

 佐伯氏の作詞ということになったので、なかにし氏にギャラは出ず「交渉して何かお礼をするようにしたが、来たのが(レコード)プレーヤーだったそうです」(武田氏)。

 人気絶頂の吉永の曲の作詞と勇んで作詞したが、現在の巨匠は半世紀前に当時の巨匠・佐伯氏の“ゴーストライター”にされてしまった格好だ。

 なかにし氏は「この件に関しては吉永小百合と吉田正、武田京子の3人が知っている事実として、ずーっと誰にも言わずにきた。僕の友人も誰一人この話を聞いたことはないはず。今回武田さんが番組で突然言ったということで僕はびっくりした。でも武田さんがそこまで心に引っかかっていて、言わずにいられなかったということでしょう。僕も引っかかっていて、武田さんが言ってくれたことで肩の荷が下りました」と語った。

 著作権に厳格な現在からは考えられない話だが「日本のレコード業界の当時の悪習が明かされた」(音楽関係者)。

 その後、ヒットメーカーの作詞家になり、作家として直木賞まで受賞した大御所でも、新人時代にはこういう憂き目を見なければならない時代もあったということか。

 実に50年ぶりの復権ということになるが、いずれにしても真相が明らかになった以上、同曲の作詞者の名前は訂正すべきだろう。

【1966年のミリオンセラー】「勇気あるもの」(66年、ビクター)はバラード調の曲で、トニーズとの共演で吉永が澄んだ伸びのある高音で明るくおおらかに歌い上げている。

「この道は 長いけど 歩きながら ゆこう」と歌い出して、友情や幸福や勇気を歌ったスケールの大きな曲になっている。

 吉永は当時、浜田光夫とコンビを組んだ一連の日活青春映画などで活躍し、歌手としても橋幸夫とのデュエットソングで第4回日本レコード大賞を受賞した「いつでも夢を」(62年)などが大ヒットして国民的アイドルになっていた。吉永の人気で「勇気あるもの」はミリオンセラーになり、66年の第17回NHK紅白歌合戦で歌われた。

 トニーズは荒木健太、栗原喜明、秋元栄次郎、杉本哲章の4人をメンバーとしたGS(グループサウンズ)のバンドで、同曲がデビュー曲だった。その後、吉永の歌番組や「夜のヒットスタジオ」などに数多く出演した。

 同曲を担当した当時のビクターのディレクター・武田氏は「いつでも夢を」や、ピーターのデビュー曲「夜と朝のあいだに」(69年、なかにし氏作詞)などを企画して大ヒットさせた。武田氏があるとき、吉田氏に「自身が作曲した曲の中で好きなのはどれか」と聞いたところ、2000曲以上ある中から10曲ほどを挙げ、その中に「勇気あるもの」が入っていたという。

 佐伯氏は戦前戦後を通して数々のヒット曲を生んだ日本を代表する作詞家の一人。戦後は吉田氏とコンビを組んで「有楽町で逢いましょう」(57年、フランク永井)、吉永のデビュー曲「寒い朝」(62年)、「いつでも夢を」などのヒット曲を手がけた。