【越智正典 ネット裏】昭和34年6月25日、プロ野球初の天覧試合、後楽園球場での巨人―阪神、年度11回戦で劇的なサヨナラホームランを放ったヒーロー、長嶋茂雄を監督水原茂は5対4で試合が終わって記者団に囲まれた会見でホメなかった。
長嶋は、第1打席で左前へライナーのヒット。第2打席にレフトへ同点ホームラン。第3打席三振。第4打席に、あのレフト上段へのホームラン。新人王貞治も6番でスタメンで第3打席に小山正明から同点ホームランを打っている。
水原は「巨人軍の4番は打つのが当たり前だよ」。
「それより」と7回、藤本勝巳(和歌山県南部高校)がツーベースを放って二塁に飛び込み、阪神が追撃を始めようとしていたとき、投手藤田元司、ショート広岡達朗が絶妙のサインプレーで藤本のわずかなスキを促してけん制で刺したのを激賞した。阪神の勝機を断った。
水原は常々、ナインに「守備、また攻撃なり」。
往時、投手別所毅彦、ショート平井三郎の二塁走者けん制プレーは凄かった。
別所はいう。
「わしがたまーに打たれてランナー二塁になると、平井のヤツ、気がちいさいもんだから目をパチパチやるんだ。開けたり閉じたり。しようがないんで、ベースにほおってやると、それでアウトさ」
平井。
「ベーのヤツ、気がちいさいから、ランナーが出ると、オタオタするんだ。次のピッチングのとき、左腕をゆっくりあげるんだ。困ったといっているのと同じさ。それで、しようがないからベースに入ってやると、それでアウトさ」
二人は一国一城の主の気概をたのしんでいた。
この34年は、巨人の名二塁手、「猛牛」のちに東スポ評論家、千葉茂が近鉄の監督に就任した年である。キャンプは巨人が明石から宮崎、近鉄が宮崎から今治。今治の夜はしんしんとして冷えた。
巨人の山崎弘美が千葉からの手紙を受け取った。山崎弘美は長野県辰野高校から入団した大型捕手。辰野は夏はホタルの里。まだ、マネジャーではなかったが誠実な人柄からみんなに何かと頼まれ、チームの世話役になっていた。
千葉の用件は、新品のスパイクは足が痛くて履けない。どこかにまぎれ込んでいたら送ってくれないか、ということだが千葉は「先日、週刊誌で君の記事を読みました。若人の面倒を見て、あれこれご苦労さまです。いよいよキャンプですね。今治に来ても、いまごろ二軍の連中はどうしているかな、隅のほうでちいさくなっていないかな、食事の具合はどうかなと案じています。ときどき、ふぅーと宮崎へ行ってみようかなと思ったりすることがあります。今年から変なことから乱戦のさなかに入って行くことになりました…」。
苦闘3年。監督を退き、帰京の車が鈴鹿峠を下り始めたのは36年11月1日であった…。
近鉄で千葉監督付きだった根本陸夫は「勝てなかったけど、千葉さんは大きなものをチームに残してくれたなあー。人柄さあー」。 =敬称略=