【プロレス蔵出し写真館】今から54年前、1970年(昭和45年)10月1日、佐藤栄作総理が招待するプロスポーツ関係者懇親会が千代田区永田町の首相官邸中庭で盛大に行われた。
空はあいにくの雨模様だったが、野球界からON王貞治と長嶋茂雄、金田正一、大相撲の横綱・大鵬、ボクシングの沼田義明ら各界の一流選手、関係者約300人が集った。プロレス界からはBI砲のジャイアント馬場とアントニオ猪木が出席。首相とにこやかな笑顔で握手をかわしていた。
馬場は猪木より場なれしているふうで高見山、高砂親方ら相撲関係者と笑顔で記念撮影に納まった(写真)。
さて、仲よく写真に納まる馬場と高見山が、数年後、リングで相まみえる可能性があった。
75年(昭和50年)5月1日付日刊スポーツが1面で「高見山プロレス転向」と報じたのだ。〝高見山レスリングジム開設〟〝夏場所後にもスピード引退〟〝高見山がハワイの有力プロモーターと、引退後にプロレスラーに転身するという契約を取り交わした〟云々。身長191センチ、体重165キロという大型の肉体はプロレス界にとって魅力的だった。
高見山はハワイ・マウイ島出身で外国出身、外国籍力士の草分け的存在。小結、前頭上位が定位置だったが〝ジェシー〟の愛称で人気者だった。
翌日、高砂部屋には東スポを始め大勢のマスコミが駆けつけた。高見山は「これが本当なら、ボク、ハラを切るよ」と完全否定。
一貫してプロレス入りを否定した高見山だが、2008年5月に日刊スポーツ紙上で「プロレスに行くつもりはなかった。ただサインはした。引退した後、もしプロレスに行くならマネジメントさせてほしいという契約」と明かした。
テレビ朝日で「ワールドプロレスリング」「大相撲ダイジェスト」のプロデューサーだった永里高平氏が、後に事の顛末を語っている。
永里氏は新日本プロレスに出向し、専務取締役に就任したが、当時、永里氏と酒を酌み交わしたという新日専属カメラマンの山本正二氏は「永里さんは高見山と懇意だった。永里さんの息子の結婚式にも来てたし、永里さん行きつけの水道橋のスナックにも顔を出していた」と語り、「永里さんは『高見山は(ハワイのプロモーター、ラルフ円福と)契約を交わしていた。春日野理事長から相談を受け(尽力し)た。春日野理事長は莫大な違約金を払って慰留した』と話していた」と回想する。
結局、周知のとおり高見山はプロレスに行くことなく、日本国籍を取得して年寄・東関を襲名し、親方として曙を横綱まで育て上げた。
今年の3月17日、翌日の東京ドームで開幕シリーズを控えるMLB、ドジャース vs カブスの歓迎パーティーが両国国技館で行われた。高見山こと渡辺大五郎が出席していてロブ・マンフレッドコミッショナーらと鏡開きをする姿があった。80歳になってなお元気な姿を披露した。
ところで、〝ウルフ〟と呼ばれた横綱・千代の富士にも、水面下でプロレス入りさせようと画策する動きがあったようだ。
86年(昭和61年)5月に劇作家・梶原一騎の回顧録で明らかになった。78年(昭和53年)に梶原の〝用心棒〟的存在だった元レスラーでレフェリーとしても活躍したユセフ・トルコが千代の富士、高見山の勧誘に動いたという「大日本プロレス」構想。後にトルコもインタビューで明かしていた。
もっとも、真偽は定かではないが、1人もレスラーが集まらず頓挫した。
東スポで長く全日本プロレス担当だった川野辺修元記者は「千代の富士は力道山13回忌興行(75年12月11日、日本武道館)に北の富士と一緒に来場した。そこで『プロレスでもやろうかな』と冗談で言ってたのを、どこかの新聞が雑感記事で書いた。そのころ千代の富士は肩の脱臼癖があって、幕下でウロウロしてたから、それで大騒ぎになった」と明かし、「でも北の富士が『ウチの米びつ(※隠語。稼ぎ頭の力士を指す)だからプロレスは絶対やらせない』って断言して、それでその話は終息した」と明かす。
そして「(大日本プロレス構想?)それは聞いたことがないけど、動いたのがユセフ・トルコ? (仮に)それが全日本プロレス、新日本プロレスっていう話ならわかるけど。トルコでしょ? 誰も信用しないよ」。一刀両断だった。
回顧話とトルコの話は当時の状況と時系列のつじつまが合っていなかった。〝よたばなし〟〝ホラ話〟の類いで、さほど話題にもならなかった。
とはいえ、高見山と千代の富士は、プロレス界が欲しかった逸材だったのは間違いない(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る













