【プロレス蔵出し写真館】会場前に張られた〝おわび〟を食い入るように見つめるファン。「ウソだろ」。ぼうぜんと立ち尽くすファン、チケットの払い戻しを求めて関係者と押し問答になるファンもいて、一時騒然となった。

 午後4時から発売した当日券にも影響が及び「チケットもっと安くなんないの」と交渉する者、「長州さんが出ないならいいです」ときびすを返すファンの姿もあった。

 今から22年前の2003年(平成15年)3月19日、埼玉・草加市スポーツ健康都市記念体育館で行われるWJプロレスを観戦に来たファンは、目玉の長州力と天龍源一郎の2人が欠場することを知って右往左往した。

 前日の18日、群馬・太田市大会を天龍が頭部異常で欠場。長州も天龍との一連の激闘で、満身創痍になったとの理由で欠場した。

 第1試合前に佐々木健介と永島勝司専務取締役がリングに上がり直接ファンに頭を下げた(写真)。

 会場からは温かい拍手が湧き起こり、暴動こそ回避したもののWJは旗揚げシリーズの目玉カード長州VS天龍6連戦が早くも頓挫して、苦境に立たされることになったのだ。
 
 健介は「オレたち若い力でWJをもっと盛り上げていく。いつまでも長州とは言ってられない」と前を向いた。

 さて、WJプロレスは「プロレス界のド真ん中を行く」とのキャッチフレーズで、長州のタニマチだった大星実業グループの福田政二社長のバックアップで長州と永島氏が設立。02年11月12日に設立会見を行った。

 新日本プロレスを退団していた健介は、イの一番に入団すると目された。永島氏は米ニューヨークに滞在していた健介を訪ね、入団を説いた。帰国した永島氏はマスコミに「そう(入団すると)思われてるのに『ハイ、入団します』じゃ面白くないだろ。いろいろ仕掛けるから見てな」。そう語ったが、長州に「余計な仕掛けは必要ない」と却下される。

 これに対して永島氏が言ったとされる「カテエ(融通がきかない意味)」というひと言は、後に劇画となった永島氏を代表する〝ワード〟としてマニアに定着した。

 03年3月1日に横浜アリーナで開催された旗揚げ戦では、長州が8分余りで天龍に勝利したが、メインにもかかわらず短時間決着。また前座からメインまで同じような試合展開にファンは不満をあらわにした。

 天龍の欠場は、実は長州が古傷のアキレス腱を痛め、永島専務が〝長州のメンツ〟を守るため天龍に欠場を頼み込んだことが、後に明かされている。一度引退していて51歳の長州がエースでは厳しかった。

 方向転換したWJは健介をエースに据え、7月20日、両国大会で行われたワールド・マグマ・ザ・グレーテスト(WMG)初代王座決定トーナメントで優勝を果たした(チャンピオンベルトは製作が間に合わないという〝オチ〟もあった)。ところが、9月6日、横浜文化体育館で開催した総合格闘技イベント「X―1」で右手親指付け根を複雑骨折。

 退団する谷津嘉章がWJの崩壊危機を東スポに告白するなど(同月28日の伊勢大会)、WJは負の連鎖が続きっぱなし。結局、翌04年6月21日の熊本大会を最後にWJは崩壊した。

 興味深い対決が行われたのは、翌05年(平成17年)8月4日、両国国技館。WRESTLE―1トーナメント1回戦で長州と健介が激突。健介はWJ時代のメンバーだった越中詩郎のヒップアタック、大森隆男のアックスボンバー、マサ斎藤の監獄固めで長州を攻め立て、最後はノーザンライトボムでピンフォール勝ちを収めた。試合が終わり、握手を求めて近寄ってきた長州を無視してリングを降りた。

 健介は「長州さんとはいろいろあった。でも金じゃないんだよ。金だったら弁護士を立ててどうのこうのっていうのがある。今日、試合をやっても何も気持ちは返ってこなかった」と漏らした。さらに「オレは長州さんの心も技も真正面から受け止めて(遺恨も)すっきりしようと思ってた。だけど向こうはすべてから逃げていた」と目を伏せた。

 するとコメントを出している健介を横目に厳しい顔つきの妻の北斗晶は、長州の控室に直行。外まで響き渡る声で長州を怒鳴りつけた。冷静さを取り戻した北斗は「みなさんに話すことではない」と口を閉ざしたが「あれがプロレスラーなんですか。最低だ。あんなヤツ(長州)とは二度と会うこともない」と吐き捨てた。

健介が長州に〝決別〟ラリアート(2005年8月、両国)
健介が長州に〝決別〟ラリアート(2005年8月、両国)

 ところで、永島氏は09年に内外タイムスの編集長に就任する。内外の記者が取材で健介オフィスを訪ねると、健介が「お宅の会社に永島さんいるんだって? 元気にやってますか。オレはなんとも思ってないから。そう伝えてください」。そう笑顔で語りかけた。

 後年、永島氏はユーチューブで長州に対し「あいつはすべて金。オレは認めない」と断罪。このユーチューブを長州が見ていたことで、関係の修復は不可能となっていた。長州はWJを起こしたことで、かつての弟子、盟友と疎遠となった。

 関係が改善されないまま今年2月10日、永島氏は呼吸不全のため、都内の病院で死去した(享年82)。永島氏が亡くなっても、WJの〝黒歴史〟はマニアの記憶から消えることはないだろう(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る