外務省元主任分析官で作家の佐藤優氏が2日、心不全で死去したアントニオ猪木さんの追悼文を寄稿した。佐藤氏は猪木さんと外交官時代に知り合い、親交を深めてきた。マル秘エピソードを交え猪木さんの“闘魂外交”を振り返った。
アントニオ猪木(猪木寛至)先生の訃報に接し、とても悲しく思う。猪木先生は、私が外交官として、ソ連とロシアの要人に深く食い込む際に重要な役割を果たしてくださった。
旧ソ連時代、プロレスは、資本主義社会の腐敗したショービジネスと見なされ、禁止されていた。ソ連には「ソビエツキー・スポルト」(ソビエト・スポーツ)という日刊紙があったがプロレスについて触れられることは皆無だった。
もっとも「アメリカの声」(VOA)、「自由ラジオ」など西側の短波ラジオでプロレスについて報道されていたので、ロシア人のほとんどがアントニオ猪木の名を知っていた。
特に猪木・アリ戦の16ミリの記録映画が闇で流布しており、ソ連共産党中央委員会、KGB(ソ連国家保安委員会=秘密警察)、ソ連軍などの幹部は、猪木・アリ戦の映画を見ていた。
猪木先生は、ソ連末期から頻繁にモスクワを訪れるようになった。ソ連では国営スポーツ・システムが崩壊し始めていたため、柔道、グレコローマンレスリング、アマチュアボクシングから優秀な選手をプロレスに引き抜くことが目的だった。そうして柔道からプロレスに転向したのが、1972年のミュンヘンオリンピックで金メダルを取ったジョージア人のショータ・チョチョシビリだった。
当時、日本大使館の3等書記官だった筆者は、猪木氏とチョチョシビリの通訳をつとめることになった。勢いで一杯飲もうという話になって、ウオトカ瓶1時間足らずで3本も空にした。チョチョシビリは、当時、ソ連権力の中心であった共産党中央委員会に友人を多数持っていた。猪木氏と会いたがるソ連の共産党と政府の幹部は多く、ここから私は、ヤナーエフ・ソ連副大統領、イリイン・ロシア共産党第二書記と知り合うことになる。このイリインさんが、1991年8月のソ連共産党守旧派のクーデター事件(ヤナーエフ副大統領は首謀者の1人だった)、「ゴルバチョフは生きている」という重要情報を私に教えてくれた。
ソ連崩壊後、エリツィン政権になってからも猪木人脈に救われた。日本を含む外国の大使がどうしても会えないエリツィン最側近のタルピシチェフ・スポーツ担当大統領顧問兼スポーツ観光国家委員会議長(大臣)とも猪木氏が面会を申し入れたから会うことが出来た。この人脈は大使に引き継がれ、日本外交に貢献した。
猪木氏は政治家として、ロシア外交を支えた貢献者でもある。猪木先生、長い間、お疲れさまでした。天国でゆっくり休んで下さい。












