【山本美憂もう一息!(10)】 1995年9月、世界選手権(ロシア)で2年連続3度目の優勝を果たした後、私は競技生活から引退すると表明しました。同年5月、最初の夫となるアスリートと結婚しました。テレビの仕事で出会い、とても面白い方で意気投合。私は米国の大学に進学をしていたので時には遠距離恋愛でしたが、結婚を機に完全帰国。競技も辞め、家庭に専念することを決めたのです。
世界の頂点に立ち、まだ勝てる状態で引退することを「もったいない」と言う人もいました。それに今のアスリートと比べると、絶好調の最中に引退することは珍しかったかもしれません。しかし自分の気持ちの中では、十分にやり切ったという気持ちが強かった。その時その時の目標を達成することに集中してきたので、連覇に対するこだわりもなかったのです。それに女子がなかなか五輪種目にならないことも影響したと思います。
また自分の両親がそうであったように、結婚して家族を持つなら自分のすべてを注がないといけないと思っていました。すっきりとした気持ちでした。96年には、待望の長男アーセンが誕生。何時間も陣痛はあったのですが、分娩台に乗ってからは10分ぐらいでポーンと生まれてきました。担当した先生に「さすが腹筋があるから早いね」と言われたことを覚えています。
おなかの中から出てきたアーセンは本当にかわいかった。最初の子だったので、何でも育児書をちゃんと読んで調べて、いろいろなことに気を付けました。夜泣きもあったけど、苦になることは何もなかった。レスリングから離れ、一緒に寝て起きて。服も靴もジョーダン(NIKE)でそろえたりしました。
出産から1年ほどたったころでしょうか。動けるようになると、父(郁榮氏)から「聖子の練習相手をやってくれないか」と頼まれました。妹の聖子は高校生の全国大会やアジア選手権で優勝するなど、世界のトップを目指し猛練習に励んでいました。力になってあげたいという思いから「練習相手ならできるかも」と軽く動き始めました。
久々にマットに立ち、聖子と組んでいると、思った以上に動けることに気が付きました。不思議なことに、また試合に出てみたいという気持ちが湧いてきたのです。約3年ぶりに復帰することを決めました。当時はママアスリートは少なかった時代。母(憲子さん)や家族の助けがありがたかった。特に母はアーセンの面倒をとてもよく見てくれました。環境に恵まれていましたね。
98年、世界選手権代表プレーオフに勝ち、4度目の世界選手権代表の座を勝ち取りました。家族で再び世界の頂点を目指そうとした矢先、受け入れがたい現実を突きつけられたのです。
☆やまもと・みゆう 1974年8月4日生まれ。神奈川県出身。72年ミュンヘン五輪代表の父・郁榮氏の影響で小2からレスリングを始める。87年に中1で女子初の全日本選手権を制覇(44キロ級)し、47キロ級も含め5連覇。同選手権では計8度の優勝を誇る。91年、年齢制限のある世界選手権に特例で出場し史上最年少の17歳で優勝。94、95年も世界を制した。2016年にMMAに転向し「RIZIN」で女子格闘技をけん引。3人の子を持つ母。156センチ。












