熱戦が繰り広げられている東京パラリンピックの開会式で日本中に衝撃を与えたのがタレントのはるな愛(49)だ。笑顔のアップが大型ビションに映し出されてスタートし、SNS上では「五輪の開会式を超えた」と絶賛された。そのはるなが本紙独占インタビューに応じ、開会式の一般公募に応募した“真意”をはじめトランスジェンダーとして歩んできた壮絶な過去、理想の未来について涙ながらに激白した。

――開会式では日本中のド肝を抜いた

 はるな いきなり顔がアップになり、両親もビックリし、感動して涙が出たと言っていました。高校時代に「女の子として生きたい」ってカミングアウトしたことで親子の溝が広がりましたが、社会で一生懸命に生きていけば必ず認めてくれると確信していました。開会式で素晴らしい経験をさせてもらい、時間がかかりましたが、いい親子になることができました。

 ――なぜ応募しようと思ったのか

 はるな インターネットで見つけて、世界の人たちが注目する最高のショーだと思って応募を決めました。実は聖火ランナーも応募したのですが、落選しました。オーディションでは「五輪とパラリンピックを分けず、一つの大会の中でハンディキャップ部門をつくってほしい」と気持ちを伝えましたが、そういう“発信したい”という思いがずっとたまっていたんです。

 ――具体的には

 はるな 2009年にトランスジェンダー世界一を決める「ミスインターナショナルクイーン」に参加し、生きづらい方がたくさんいることに気づきました。8年ほど前には弟が脳梗塞で倒れて車いす生活になり、初めて知ることばかり。街の中には危ない(場所に設置された)点字とか、急斜面の車いす用スロープなど、世の中にはまだ理解されていないことが多く、今こそ世界に発信するタイミングだと思ったんです。

 ――自身も大変な苦労

 はるな 覚悟がなかったら生きてこられなかったですね。小学校ではランドセルが赤と黒に区別され、このまま男になっていくのか…と悩み、何を見ても「自分の人生はどうなるんやろ?」という終着点に行きつく。男で生きるか、女で生きるか。2択に迫られた時、頑張って女の子と愛し合って子供をつくって親を喜ばせ、私は我慢すればいいかなって思った。でも、そうしたら親を恨むかもしれないって思ったんですよね。

 ――それで女性として生きようと

 はるな はい。一度きりの人生だし、自分の思った通りに生きることが幸せに死ねる唯一の方法だと思ったんです。でも、完全な女の子になりたくなかった。性別適合手術で医師の許可をもらえば性別も名前も変えられますが、男としての大西賢示(本名)を消したくなかった。つらいこと、嫌なことを味わった大西賢示と一緒に生きないと私は存在できないし、地に足がつかない。それに女の子を追い求めている方が楽しいんですよ。

 ――テレビ番組では性的なことでイジられてきたが抵抗はなかったか

 はるな 全然なかったです。小さいころから個性を笑いに変える吉本新喜劇を見て育ってきたので。池乃めだかさんがネクタイを外して身長と一緒や!って言ったり。だから“エアあやや”でテレビに出るようになり、さんまさんやダウンタウンさんにイジってもらうのが一番うれしかった。ただ、テレビ局の偉い方に「キミみたいなキワモノはゴールデン(タイム)に出られない」って言われた時は、やっぱりそういう目で見ているのかって思いましたけど。

 ――笑われることで個性を確立したのか

 はるな はい、それが私のやり方でした。仮に腫れ物に触られるような立ち位置だったら、テレビでの居場所はなかったと思う。今ではLGBTという言葉ができ、規制も厳しくなって「はるな愛を呼んでもイジれない」という声も聞きます。そんな特別な人間、触れられない存在になるのが一番怖い。今、世の中はその狭間にいると思います。もっと先に笑い合えることを願っています。

 ――東京パラリンピック開会式が与えたものは

 はるな 人間って外見は選べない。私の場合は体が男だった。(涙を流して)それぞれ事情があり、不得意なものを補い合ってきた開会式のチーム。私たち仲間が体験したあの時間、あの場所が社会に広がってほしいです。