【この人の哲学】林哲司氏 2人の兄を通して触れた洋楽と歌謡曲

2020年05月22日 09時00分

作曲家の林哲司氏

【この人の哲学:林哲司氏編(1)】最近、海外で日本の1970~80年代の楽曲が評価され、人気になっているのをご存じだろうか。その代表的な一曲、松原みきの「真夜中のドア~Stay With Me」(79年)や、上田正樹の「悲しい色やね」(82年)、杉山清貴&オメガトライブの「ふたりの夏物語」(85年)など数々の名曲を生み出した作曲家の林哲司氏(70)が登場。林氏はどのような人生を歩んでヒットメーカーになったのか。人生を変えた言葉や出会いとは?

 ――林さんはこれまで数々のヒット曲を世に送り出してきました。ぐっとさかのぼって、そもそも音楽との最初の接点はどういうものでしたか

 林氏:明治生まれの母親が教員の免許を持っていて、当時の先生は国語、算数だけでなく音楽など全教科を教えていたから、うちには古いオルガンがあったんですよ。幼稚園のころから耳で覚えた曲を弾いて楽しんでいた記憶があります。

 ――なんと、小学校に入る前から!

 林氏:あと、兄の影響も大きいですね。僕は5人兄姉の末っ子で、一回り以上離れた兄が2人いて、僕が物心ついたころには、長男は歌謡曲、次男は洋楽を聴いてたから、2人を通して全く違うタイプの音楽に触れられたんですよ。

 ――洋楽はどのような曲を聴いてましたか

 林氏:例えばニール・セダカの「カレンダー・ガール」(60年)や、ポール・アンカの「電話でキッス」(61年)とか。英語はわからないけど、耳で聴いてそれっぽく歌ってました。音楽に関してはマセてました(笑い)。

 ――発売年を考えると小学校6年生あたりですね。邦楽はどうでしょう

 林氏:歌謡曲では三橋美智也さんや美空ひばりさんを筆頭に御三家とか。ポップスでは50年代初めには、江利チエミさんの「テネシー・ワルツ」のように、米国の曲を日本語に訳して歌う人もすでにいました。やがて「ザ・ヒットパレード」(59~70年、フジ)という番組が始まって、ザ・ピーナッツや伊東ゆかりさん、中尾ミエさん、尾藤イサオさんたちが米国のポップソングに日本語の歌詞を乗せて歌うようになりました。

 ――当時はそういう形で洋楽との接点があったんですね。中学ではブラスバンドに入られたそうですが

 林氏:実は、最初に入ったのは気象観測部だったんです。

 ――え!? 音楽と関係ない!?

 林氏:興味があったわけではなく、近所の先輩から「とにかく楽だぞ」と言われて入ったんです。気象観測って大変な仕事だからこんなこと言ったら怒られちゃいますね。

 ――放任主義の部だったということですね。なぜ辞めたんですか

 林氏:入ったその夜にオヤジに言ったら、めちゃくちゃ怒られたんですよ。「子供のうちから楽することを覚えてどうするんだ!」と。

 ――「楽を覚えるな」とは強烈な説教ですね

 林氏:オヤジ自身が、勤めていた会社を辞めて自分で製紙会社を立ち上げた人だったんです。いまだに印象に残っていますが、事務所の鉛筆が短くなっても、最後まで使い切ってから買い足した、と聞いています。経営とはそういうことまで細部にわたって考えてやらなきゃいけないのかと思ったものです。不安定な音楽業界にちゅうちょなく足を踏み入れられたのは、精神的にそういう親に守られていたことに後々気づくんです。一方で平穏に育ってほしいという親の考え方が、個性を求められる世界で僕にタガをはめていることに気づくんですね。

 ――そのお話は後ほど詳しく聞かせてください。その説教をきっかけにブラバンに入り、音楽の道へとかじを切るわけですね。選んだ理由は

 林氏:次男に相談したら、彼はベニー・グッドマン(ジャズ・クラリネット奏者、1909~86年)というクラリネット奏者が好きで、「ブラバンでクラリネットをやったら」と勧められたんです。ただ、あのころは行進曲ぐらいしか演奏する曲がなかったから、自分で好きな曲を演奏するバンドを作ってました。(続く)

★プロフィル=はやし・てつじ 1949年8月20日生まれ。静岡県出身。72年にチリ音楽祭で入賞。翌年シンガー・ソングライターとしてデビュー。作曲家として77年に「スカイ・ハイ」で知られる英国のバンド・ジグソーに「If I Have To Go Away」を提供。竹内まりやの「SEPTEMBER」(79年)、中森明菜の「北ウイング」(84年)ほか数々のヒット曲を送り出している。自ら監修した「杉山清貴&オメガトライブ 7inch Singles Box」が4月15日に発売された。

関連タグ: