【この人の哲学】矢沢永吉からの忘れられない言葉

2019年12月31日 10時10分

【この人の哲学】ジャニーズで30年以上にわたって音楽プロデューサーとして活躍し、「夜空ノムコウ」などあまたのヒット曲を手掛けた鎌田俊哉氏。裏方に回った経緯と理由、ジャニー喜多川氏や大物ミュージシャンと接する中で得た“哲学”を語ります。矢沢永吉からの忘れられない言葉とは?

――高校卒業後、18歳で子供ばんどに加入

 鎌田氏:子供ばんどは都立大附属のひとつ上の先輩で、以前から交流があったんです。でも1年ほどいて辞めちゃうんですね。当時、並行して英語塾で知り合ったカナダ人たちともバンドをやってて、それも楽しかったんだけど、留学生だから国に帰っちゃう。だからまた違うメンバーとバンドを始めました。そのバンドを井上堯之さんが見に来て、事務所に入ることになったんです。

 ――「太陽にほえろ!」や「傷だらけの天使」など数々のヒットドラマや映画のテーマ曲に関わってきた、元スパイダースにして沢田研二のバックバンドを務めたあの方! どういう経緯でしょう

 鎌田氏:これが面白いというか、後に僕がジャニーズと関わることにもつながってくるんだけど、役人相手のテーラーの、日本橋の園部さんという方がいたんです。父に「息子さんは何してるんですか?」と聞いて、父が「長男は上智大学で物理の勉強しているけど、次男はどうしようもない。楽器持ってよくわからんことやってる」みたいなことを言ったら、園部さんが会いたいと言われたんですよ。

 ――何かを感じたんですね

 鎌田氏:それで会ったら、僕は「音楽で日本一になる!」とか、生意気なことを言ってるわけ(笑い)。園部さんは面白がって、直接僕に連絡をくれて「俊哉君、紹介したい人がいるから来てください」と呼ばれたんです。行くと日本橋の呉服屋のご主人と、角海老宝石の鈴木正雄社長がいらして、「面白い若者がいるから、彼の話を聞きましょう」と。話をしたら、鈴木社長が「大塚のボクシングジムの2階が空いてるから使っていいよ」と、バンドの練習場所を提供してくださったんです。

 ――なんと幸運な!

 鎌田氏:鈴木社長は「楽器も足りないのがあったら買うよ」と買ってくださったし、夕方になると「メシできたぞー」とコーチと一緒に夕飯も食べさせてくれて。メンバーは「なんでこんないい場所を借りられたんだ!?」とびっくりしてましたけどね(笑い)。そこに井上堯之さんが見に来て、井上さんの事務所に誘われたんです。

 ――至れり尽くせりの上にチャンスまで!

 鎌田氏:入ったらソニーで矢沢永吉さんや南佳孝さんを手掛けた高久光雄さんと、渡辺音楽出版でアグネス・チャンや沢田研二さんを手掛けた木崎賢治さんが見に来て、「チャラいけど面白いね」と、お2人のプロデュースで「パーティ」というバンドでデビューすることになりました。

 ――園部さんに出会ってからとんとん拍子です

 鎌田氏:そこまではね。デビューが決まってから、高久さんのご紹介で矢沢永吉さんとお会いしたんです。矢沢さんは「お前らどこのバンドだ。東京? 東京のバンドはダメだな」と言われるんですよ。

 ――どういう意味でしょう

 鎌田氏:続けて矢沢さんは「お前たちにはすぐ帰れる場所があるだろ。帰ったらメシを食える。いいか、それはハンディなんだぞ。俺たちは地方から退路を断って出てきた。売れなきゃメシが食えないんだ。だから力がつく。東京に家があるってのは致命的なハンディなんだよ」と言われて。

 ――「致命的なハンディ」とは強烈ですね

 鎌田氏:その時はよくわからなかったけど、実際に僕らは売れなかった。本当におっしゃる通りでした。矢沢さんは僕らに、“お前らどこまで本気になれるんだ”と、気合を入れてくれたのかもしれないですね。そしてこの後、僕らはなかなか大変な道に入っていったんです。(続く)

★プロフィル=かまだ・としや 東京都世田谷区出身。高校在学中に17歳でプロデビューし、子供ばんど、五十嵐浩晃のツアーバンドなどを経てプロデューサーに。ジャニーズのほかKiroroの「長い間」「未来へ」など数々のヒット曲をプロデュース。現在は中国にも拠点を持つ。悦音堂文化(北京)有限公司代表。カンタナ代表。

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