あの時のあの青年がNPBの指揮官とは、23年前には夢にも思わなかった。コロナ禍の影響でヤクルト・松元ユウイチ作戦コーチ(41)が監督代行を務めることになった。ブラジルから来日した物静かなバットマンは、信頼を置かれる指導者に成長した。

 チームでは選手、首脳陣、スタッフら計28人の新型コロナウイルス陽性者が判明。9、10日の阪神戦(神宮)は中止となった。12日の中日戦(豊橋)は雨天中止となったが、松元監督代行は13日からの同カードで指揮を執る予定だ。

 1999年の松元の来日時を忘れもしない。同僚のツギオ佐藤(ヤクルト、シダックス、ヤマハ)が日本語を流暢に話したのとは対照的。言葉が通じないせいもあってか、無口でうつむき加減でシャイな18歳だった。

 来日後、しばらくして佐藤の通訳で松元を取材した際には「日本食にもまだ慣れない。ブラジルの代表的な家庭料理のフェイジョンやフェイジョアーダ(ともに煮込んだ豆料理)を食べたいですね」とホームシック気味だったことを覚えている。

 環境への順応性の高さは海外で成功する秘訣。佐藤がNPBで頭角を現すのではと当時は予想した。だが、それは間違っていた。03年を最後に佐藤はヤクルトを退団し社会人野球のシダックスに移籍。松元は4年目の02年から引退する15年まで一軍でのプレーを継続した。

 関係者の証言では「徐々に日本の生活にも慣れて、休日前には六本木にも遊びに行けるようになりましたよ」と、数年後にはすっかり順応したこともわかった。

 13年にはWBCブラジル代表に佐藤とともに選出された。15年はヤクルトの優勝に貢献し、そのシーズンを最後に引退し指導者に転身した。

 来日当初は「おはよう」「さよなら」くらいしか日本語を話せなかったブラジル生まれの青年。それが時を経て、コロナ禍でのアクシデントとはいえ、チームの指揮官になるとは本人も予想しなかっただろう。

 あの時にもし戻れるなら松元に言ってあげたい。「アブソルタメンテ ベン(絶対に大丈夫)」だよと。

(楊枝秀基)