地獄の練習から命を救ったのは魚型しょうゆ差し

2020年05月21日 11時00分

正田の“命綱”でもあった魚型タレビン

【正田耕三「野球の構造」(15)】1977年に市立和歌山商業、現在の市立和歌山高校に進学した僕に待っていたのは地獄の日々でした。野球部の辻本輝夫監督からの口説き文句は「3年計画でチームを強化する」。実際に2年生が6人ぐらいしかいなかったこともあり、いきなり二塁のレギュラーとして使ってもらえたのですが、そうなると黙っていないのが3年生です。

 僕をレギュラーに選んだのは監督であり、そこに文句はつけられない。だからプレーとは直接関係のない「礼儀」などでイチャモンをつけるのです。「お辞儀は90度や言うとるやろ! 帽子は右手に持て!」。理不尽な説教は毎日のように繰り返され、さすがに嫌気が差しました。

「もう、あんなところで野球はしたくない」。そう言ってグラウンドから遠ざかり、1か月近く練習を休みました。それでも辻本監督は連日のように自宅まで来て「出てこい!」。新チームになったのを機に復帰しましたが、次に待っていたのは地獄のような練習です。

 朝は5時から練習が始まり、放課後は夜9時まで。今でも甲子園を目指す高校ならそれぐらいの練習量をこなしていると思いますが、何よりつらかったのは現在と違って練習中に水分を摂取できないことです。それこそ野球そのものより、いかにして水を飲むかばかりを考えていました。

 監督にバレないよう水分を摂取するのには、いくつかの手段がありました。オーソドックスなのは、ひもを使って壁の外側に缶ジュースをぶら下げておくというものでしたが、これだと知らないうちに他の選手に飲まれてしまうので×。タイヤ引きのトレーニングに使う古タイヤの内側に入れたりもしましたが、夏場は大好きだったHI―C(ハイシー)のオレンジが熱湯のように熱くなってしまい、これも×。最終手段として導入したのが、そば店を経営していた我が家にたくさんあった、すし折り用の魚型しょうゆ差しです。

 水を吸わせた状態でいくつかユニホームのポケットに忍ばせ、監督の目を盗んで口の中にピュッとやる。一度に摂取できる量は4ミリリットルながら、これで生き返るのです。このときほど、そば店の子供に生まれて良かったと思ったことはありませんでした。

 学校に寝泊まりしての合宿中に逃げ出したこともあったし、何とか練習が中止になるようにと夜のうちにグラウンドを水浸しにしたり…。今となっては当時の自分に「そんなアホなことばかり考えんと、マジメに野球せえ」と言ってやりたいですが、裏を返せば、それだけいっぱいいっぱいの状態で野球に打ち込んでいたのです。

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。