「あの敗戦があったから今がある」――。30年たった今、1996年夏の甲子園決勝で“奇跡のバックホーム”の走者となった元熊本工高の星子崇さん(47)は、そう言い切る。延長10回一死満塁。「いける」と確信して本塁へ向かった激走は本人の感覚では、わずか2~3ミリ届かなかった。その一瞬が、高校野球ファンが集う新たな居場所を熊本に生み出した。

店内に飾られたユニホームを見せる星子崇さん
店内に飾られたユニホームを見せる星子崇さん

 熊本市の高校野球バー「たっちあっぷ」。壁一面には全国各地の高校のユニホームが並び、店内では高校野球談議に花が咲く。開店から12年。今では47都道府県すべてから来店があり、母校のユニホームを託す人も増えた。「全国から来てくださる方がいて、ユニホームも預かっています。だから店は閉められません」。店はビジネスである一方、全国から寄せられた思いを受け止める場所にもなっている。

 店名は、自らの人生を変えたあのプレーに由来する。1996年夏の甲子園決勝、延長10回一死満塁。本塁を狙ったものの、松山商の右翼を守っていた矢野勝嗣選手の好返球に阻まれ、ホームまで届かなかった距離は、本人の感覚ではわずか2~3ミリ。世間では「15センチ差」と語られることもあるが、「15センチなんて聞いたことないですね」と笑い、「届かなかったのは必然。もし優勝していたら、こんなに語られることはなかった」と振り返る。

 店では今も「あれはセーフだったのか、アウトだったのか」と尋ねられる。熊本では今なお「セーフだった」と信じる人もいるが、自身は「あれはアウト」と迷わず答える。同じ質問を何度受けても「ありがたいことです」と笑顔を見せる。その後、矢野勝嗣さんと再会し、「戦友みたいな感覚」と語るようになった。店を始めることを伝えると、松山商のユニホームを快く貸してくれた。その縁は、熊本工と松山商をつなぐ店の象徴にもなっている。

 開業当初は「誰も来ないのでは」と不安もあったが、高校野球ファンの口コミで評判は全国へ広がった。現在は中川夢乃店長(28)が店を支え、「彼女が頑張ってくれているおかげ」と信頼を寄せる。熊本地震も経験したが、それ以上に心を痛めたのがコロナ禍で甲子園が中止になったことだった。「自分たちには夢舞台があった。大会そのものがなくなった3年生の気持ちは計り知れない」。代替大会を勝ち抜いた球児たちを甲子園へ連れて行こうと奔走するなど、球児のためにできることを模索した。

 目指すのは、熊本工関係者や強豪校出身者だけの店ではない。「野球を知らなくてもいい。来れば詳しい人がいる」。そんな場所だからこそ、高校野球に興味があれば誰でも気軽に足を運んでほしいという。世代や地域を超えて人がつながり、新たな出会いが生まれる場所。それが星子さんの思い描く「たっちあっぷ」の姿だ。

「店は閉められません」。ホームベースまで届かなかった、わずか2~3ミリ。30年前の敗戦があったからこそ、星子さんは今日も自らの第二の人生を歩み続けている。

笑顔で並ぶ星子崇オーナー(右)と中川夢乃店長
笑顔で並ぶ星子崇オーナー(右)と中川夢乃店長