フランス北西ノルマンディー地方の町エルブフで34年間、日本の技と理念を伝えてきた柔道指導者がいる。現在67歳、福岡・行橋市で暮らす日仏柔道7段の萩原信久さんだ。1981年に渡仏し複数の道場で指導を続ける中で、後に五輪連覇を果たすダビド・ドイエを教えた経験も持つ。日仏双方の柔道を見てきた立場として、その歩みとともに、シドニー五輪柔道男子100キロ超級決勝で今も物議を醸す“誤審”騒動についてどう考えるのか、その見解を聞いた。

フランスで指導していた子供たちと笑顔を見せる萩原さん(本人提供)
フランスで指導していた子供たちと笑顔を見せる萩原さん(本人提供)

 萩原さんは、祖父が天神真楊流柔術の師範、父が牧師という家庭に育ち、教会に併設された道場で自然と柔道に親しんだ。宮崎商高で鍛えられ、天理大へ進学したものの、入学直後のヒザの故障に苦しみ、競技者として第一線を目指すことは難しくなった。それでも柔道への情熱は揺らぐことなく、次第に“教える側”として柔道に携わる道を模索するようになった。

 転機は天理大3年時の欧州遠征だった。フランス、ヴィシー市のサマースポーツセンターで「新しい道場の指導をお願いしたい」と声をかけられ、帰国後も手紙のやりとりを続け、1981年にフランス移住を決断した。

 渡仏後に目にしたのは、日本をはるかに上回る道場が整い、柔道の創始者・嘉納治五郎の写真の隣に「フランス柔道の父」川石酒造之助の肖像が掲げられるなど、独自の発展を遂げた柔道大国フランスの姿だった。当初は日本式の作法を重視したが、次第に「形式を押しつけるのではなく、本質を言葉で伝える」指導方針へと変わっていった。

 月1回の指導に赴いていた道場では、当時13歳前後のダビド・ドイエと出会った。規格外の体格と強靱な精神力を備えた少年で、日本流の“相手の力を利用する柔道”に触れた体験は、後年の「ハギワラという日本人から新しい柔道の側面を学んだ」という本人の言葉にも残る。ただ、萩原さんは「特別に教え込んだわけではない」と語り、成長はドイエ自身の努力のたまものだと冷静に振り返る。

ドイエ(左)に技をかけるポーズを取る萩原さん(2025年、本人提供)
ドイエ(左)に技をかけるポーズを取る萩原さん(2025年、本人提供)

 そしてシドニー五輪100キロ超級決勝――天理大の後輩・篠原信一とドイエが争い、現在も議論の対象となる“誤審”騒動について、萩原さんはこう分析する。「まず篠原の内股透かしは見事な技だったが、残念ながら主審はこの「後の先」の妙味を見抜けなかった。ただ同時にドイエの内股にも勢いがあり、その影響で篠原の体が若干崩れてしまい、これを「有効」の判定材料とされてしまった。両者の技量、技の効果のプラス、マイナスを総合的に考慮した場合、あの場面では篠原に『技あり』か『有効』を与える判断が妥当だったのではないか」。さらに「当時、世間で主張されていた篠原の“完全な一本”と断言することは厳しい」とも語り、双方の技を冷静に比較したうえでの私見であることを強調した。

 萩原さんは、この一件を「武道としての柔道」と「スポーツとしてのルールに基づく柔道」のギャップが露呈した象徴的な場面だと捉える。

 34年に及ぶフランス生活は価値観にも影響を与えたという。自己否定を美徳としがちな日本、自己肯定を重んじるフランス。双方を行き来した経験から「自国の価値観を絶対視しない柔軟さ」を得られたと話す。

 2015年の帰国後は行橋市に拠点を移し、地域を中心に柔道活動に携わり、日仏交流についての相談にも応じながら「日仏の架け橋として役に立ちたい」と静かに語る。

 月に一度の稽古場で出会った少年が世界の頂点へ駆け上がり、自身は日本とフランスを結ぶ役割を担い続ける。力ではなく“技”“理念”で結ばれた2つの軌跡が、柔道の奥深さを改めて浮き彫りにしている。