【第71代横綱 鶴竜力三郎の軌跡 一生懸命・音羽山親方自伝(10)】2011年の前半は相撲どころではなくなってしまう出来事が立て続けに起きました。1月の初場所後に不祥事(※1)が明るみに出て、3月の春場所が開催中止。その後、大勢の力士が引退することになりました。中には同じモンゴル出身や同世代の力士がたくさんいた。彼らが一気に辞めていくのを見るのは、つらいものがありました。
誰かに託されたわけではないけれど、あの時は辞めていった力士の思いを勝手に背負っている自分がいた。「辞めた人の分まで頑張らなきゃいけない。もっと強くなって、上にあがらなきゃ」と…。当時は三役と平幕を行ったり来たりしていましたが、大関を目指す気持ちが強くなるきっかけになったと思います。
この年の3月11日に起きた東日本大震災も忘れられません。例年なら大阪にいる時期ですが、春場所が開催中止になったので東京で過ごしていました。部屋近くのマンションの9階で暮らしていて経験したことがないような大きな揺れがあった。慌てて外に出ると、古い建物の外壁が崩れ落ちたり、水道管から水が噴き出したりしていた。
近くに住んでいた旭天鵬関が車で通りかかり同乗させてもらったことを覚えています。車内のテレビには、車が津波に流されて浮いている様子が映っている。目にした光景の全てが信じられませんでした。その後に福島の原子力発電所でも事故が起きた。どうなるか分からない状況だったので、師匠の井筒親方(元関脇逆鉾)の提案で大阪の宿舎に10日間ほど避難することになりました。
私が生まれたモンゴルは大陸ということもあり、日本のような地震がないんですね。あったとしても、震度1ぐらいで気付かない程度。震災発生後は余震があるたびに、夜中に驚いて飛び起きたりしていた。大阪に行ってからは久しぶりにゆっくり眠ることができたけれど、心の中には大地震のことがしばらくトラウマとなって残りました。
5月には技量審査場所(※2)が開かれ、私は小結で12勝。7月の名古屋場所は関脇で10勝を挙げ、9月の秋場所では初めて大関取りに挑戦しました。ただ、勝てるはずの相手に星を落としたり、もったいない相撲が何番かあった。結果は9勝6敗で失敗に終わりました。この場所は私、琴奨菊、稀勢の里が関脇で、豊ノ島が小結。みんなが上を目指していたし、同じ年代には負けたくない気持ちが強かった。
後から振り返ると、大関の地位やライバルのことを意識しすぎてしまったんですね。この時の失敗は、いい勉強になった。そして翌年3月の春場所で私は再び大関取りに挑むことになります。
※1 2月に八百長問題が発覚し、日本相撲協会は戦後初の本場所中止を決定。現役力士22人が引退や解雇となった。
※2 興行としての本場所開催を見送り、観客に無料公開された。











