【プロレス蔵出し写真館】今春、日本障がい者レスリング連盟を立ち上げた義足のレスラー・谷津嘉章が今月1日、埼玉・富士見市で行われたレスリングの全日本社会人選手権に出場した。将来的にはパラリンピック正式種目入りを目指し、障がい者レスリング普及のために、今大会に出場したという。

 1986年の全日本選手権130キロ級で優勝して以来、37年ぶりとなった公式戦は惜しくも初戦敗退となった。

 さて、谷津といえば今でもときおり話題に上がるのは〝悲惨〟だった国内でのデビュー戦だ。

 今から42年前の81年(昭和56年)6月24日、蔵前国技館でアントニオ猪木とタッグを結成した谷津は、スタン・ハンセン&アブドーラ・ザ・ブッチャー組とメインイベントで激突。水曜スペシャルの生中継特番で全国放送という破格の扱いだった。

 谷津は、いきなり猪木の平手打ちを食らい、気合を入れられて先発。ハンセンと対峙するとアームホイップ、ショルダースルー、ドロップキックでしょっぱなから見せ場をつくり、館内は大歓声に包まれた。しかし、ハンセンのエルボー、ニーパットを食らい徐々に劣勢に…。交代したブッチャーには地獄突き、頭突きを浴びてダウン。

 その後は一方的な展開になり、2人がかりでいたぶられ、場外に落とされると鉄柱へ叩きつけられ、さらにビール瓶の攻撃で大流血。谷津は断末魔の悲鳴を上げ、凄惨な試合となった。

 最後はハンセンのウエスタンラリアートに沈み、ピンフォールを奪われ1本目を失った谷津は大の字にダウン。2本目のゴングが鳴っても立ち上がることができず、キレた猪木がビール瓶を持ち出し、レフェリーを殴打して反則負け。1―2で敗戦となった。凱旋帰国と呼ぶには程遠い、むごたらしいものだった。

 控室に運ばれた谷津は寝かされ、医師の治療を受けた。まったく起き上がれず、ダウンしたまま。藤波辰巳(現・辰爾)、坂口征二が心配そうにのぞき込む光景があったが、猪木の対応は冷ややかだった(写真)。

 谷津は、我々がカメラ機材を片付け終わっても、額にタオルを乗せ、寝かされたまま。まさにさらし者状態だった。

 谷津はのちにユーチューブで、「ほとんど外人選手によるリンチみたいなもんですね。反則負けとか反則勝ちって、あの試合はなんだったんでしょうか。自分にはわかりませんでした」。そして、「招待した友人知人が電話で『お前できるのか? 辞めた方がいいんじゃないか』。何人にも言われました。(だからといって)負け犬みたく辞めるわけにはいかなかった」と回想している。

 ところで、谷津は足利工大附属高校から日大に進学。レスリングで全日本選手権5連覇を達成し、76年モントリオール五輪8位。80年モスクワ五輪3位入賞は確実と言われ、日本人では史上初のヘビー級メダリスト誕生かと期待されていたが、米ソ冷戦の影響で日本はボイコットし、無念の涙をのんだ。

 プロ入りにシフトチェンジした谷津は、新日本プロレス入りを表明。80年10月23日に東京・新宿の京王プラザホテルで猪木、坂口同席のもと入団会見を行った。

 谷津は30日の熊本から九州巡業に参加。長州力との初練習を、選手も興味深そうに眺めていた。

九州巡業に合流した谷津(80年10月、熊本「本陣」)
九州巡業に合流した谷津(80年10月、熊本「本陣」)

 その夜、宿舎となった老舗旅館「本陣」で歓迎会があった。焼酎をしこたま飲まされ酔っぱらった谷津だが、先輩レスラーは平然。後から、イタズラを仕掛けられていた(仕掛け人は坂口)ことが判明。谷津以外は水を飲んでいた。後から種明かしをされた谷津は「やってらんねぇー。バカ負けしたよ」。そう若手レスラーに愚痴ったという。

注目を浴びながら長州と初練習する谷津(80年10月、熊本)
注目を浴びながら長州と初練習する谷津(80年10月、熊本)

 そして、この巡業中、長州とのレスリングでの真剣勝負が実現していた。猪木はマスコミ、場内整理を外に出し、長州にスパーリングを指示した。果たして結果はどうだったのか。当時の若手は、「長州さんが手玉に取ってました。それを見て猪木さんはうれしそうでしたね。長州さんがリングを降りるとき、ボソっと『今の全日本チャンピオンってあんなものなのか?』そう言ってましたね。もしかしたら、谷津がレスリングの先輩・長州さんに花を持たせたのかもしれませんが…」と明かす。

 谷津はその後、海外遠征に出発。12月29日、米ニューヨークMS・Gでカルロス・ホセ・エストラーダを相手にデビュー戦を行い、フロントスープレックス(後にワンダースープレックスと命名)でピンフォール勝ちを収めた。

 合宿所にも入らず、即海外に行かされマジソンでデビュー戦を行った谷津の行程は、全日本プロレスに入門したジャンボ鶴田を彷彿させた。エリート教育が順調に進むと思われたが、猪木の方針はジャイアント馬場とは大きく異なるものだった。

 タラレバを言っても仕方ないが、全日本プロレスに入団していれば三沢光晴、川田利明の先輩となり、鶴田亡き後、全日プロを支えた存在になっていたのは間違いない。様ざまな団体を渡り歩くこともなかったろう(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る