【多事蹴論(61)】欧州ビッグクラブ入りの危機を救ったのは意外な人物だった――。鳴かず飛ばずだった長友佑都は明治大学時代にサイドバックに転向すると、2006年に自慢の走力を生かして大ブレーク。07年には北京五輪を目指すU―22日本代表にも選出された。08年にFC東京へ入団。同年の東京ダービーで当時Jリーグを席巻し、後にブラジル代表に選出される東京VのFWフッキを封じ込め、その名をとどろかせた。

 そのまま岡田武史監督率いる日本代表にも抜てき。同年5月にデビューを果たし、10年南アフリカW杯でも高評価を受けると、大会後にはイタリア1部チェゼーナ入りを実現させた。長友は初の海外でも好パフォーマンスを発揮し、日本代表としても11年1月のアジアカップ決勝ではV弾をアシスト。この活躍が認められ、ついに欧州屈指の名門として知られるイタリア1部インテルから正式オファーが届いた。

レオナルド監督のおかげで…
レオナルド監督のおかげで…

 そして迎えた移籍市場最終日の1月31日。長友はインテルの事務所で契約交渉に臨むことになった。ただ、急な動きだったため通訳が不在。長友自身も滞在わずか4か月でイタリア語も勉強中だった。担当者から説明を受けても、契約書に記されている難しいイタリア語を理解できない。困ったフロント側は、J1鹿島でもプレーした経験のあるレオナルド監督に助けを求めた。

 元ブラジル代表の名選手だったレオナルド監督はつたない日本語と英語で話しかけるも、長友には理解できない。夜も更けてきて移籍市場の締め切りが迫る中、指揮官がひらめいた。鹿島に所属していた時代に通訳を務めていた鈴木国弘氏に国際電話をかけたのだ。鈴木氏は06年ドイツW杯を指揮したジーコ監督を担当したポルトガル語の名通訳。レオナルド監督が鹿島を退団してからも親交が続いていた。

 鈴木氏とコンタクトが取れると、レオナルド監督は“緊急事態”を説明した上で、イタリア語で書かれた契約書を見ながら、その内容をポルトガル語で鈴木氏に伝える。それを鈴木氏が日本語に訳して長友に聞かせるという何とも複雑な“経路”で契約内容を確認した。長友がすべての書類をチェックし、契約書にサインしたのは移籍締め切り時間のわずか3分前のことだったという。

 鈴木氏は「日本は真夜中だったし、レオナルドから突然の電話にびっくりした。長友の契約交渉がうまく進んでよかったけど、オレが電話に出なかったらどうなっていたのか…」と語っていたように、レオナルド監督の機転と、鈴木氏が深夜でも電話に出てくれたことによって不成立の危機を回避できたといえる。

 長友は18年1月にトルコ1部ガラタサライに移籍するまで8シーズンにわたってビッグクラブでプレーした。12年前の窮地を乗り越えられたからこそ、カタールW杯でも結果が出せたに違いない。 (敬称略)