プロレス界のスーパースター、アントニオ猪木さん(本名猪木寛至)が1日午前7時40分、「心不全」のため都内の自宅で死去した。79歳だった。数々の伝説を残した〝燃える闘魂〟の死に日本中が衝撃を受けているが、歴代の番記者たちが猪木さんの「秘話」を振り返る。第1回は1997年から2008年まで、猪木担当を務めた記者が思い出を記す。

【さらば燃える闘魂1】

 嫌な予感は当たった。2020年12月、本紙の対談企画に参加してもらった時のことだ。ひと通り関係者にあいさつをして、最後に猪木さんに「今日はありがとうございました。来年もよろしくお願いします」と頭を下げた。すると猪木さんがひと言。

「来年はないよ!」

 そう言い放って、車イスで去っていった。

2020年12月に行ったアントニオ猪木さん(左)と小川直也氏の対談企画
2020年12月に行ったアントニオ猪木さん(左)と小川直也氏の対談企画

 驚いた。猪木さんはどんな時でも別れ際には必ず「今度こそ、メシ行こうな」と言ってくれた。もちろんそれが単なる儀礼だとはわかっていたが、天下の燃える闘魂に誘ってもらってうれしくないはずがない。今回も同じ言葉が返ってくることを期待していただけに、正直言ってうろたえた。

 アントニオ猪木が弱音を吐くなんて…。

 思えば、猪木さんは常に「アントニオ猪木」を演じてきた。口癖は「オレをみこしで担いでくれ」。それが多少…いや、かなり危ういみこしでも堂々と真ん中に乗ってみせた。

 会長、週刊誌に出てますよ。「いや、オレは新聞とか一切読まないから。何書かれようが関係ないね」と言いつつ、自身の記事のチェックは怠りない。控室では紙面を見ながら「よしよし、オレが言った通り書いたか」と笑っていたそうだ。

 メディアとの食事会では、絶対に財布を開かせない。それは弟子たちにも受け継がれ、記者が先に会計を済ませようすると飛んできて「会長に怒られるから」と絶対に譲らなかった。あの借金王・安田忠夫でさえ一時期はそうだった。

 猪木さんのサイン色紙、実はほとんど事務所関係者や弟子たちが〝代筆〟したものらしい。そんなうわさを聞いていたから、病床にあった猪木ファンの義父のため、関係者を通さずご本人に直接お願いした。険しい表情で何かの書面を見ていた猪木さんは「お名前は? 頑張って、と伝えて」と笑顔でしたためてくれた。色紙の文字は世間に出回っていたものと全く一緒だった。

「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」。アントニオ猪木を語る上で欠かせない名言だ。常在戦場の生きざま。それは常に「アントニオ猪木」で居続けることだった。そんな燃える闘魂から出た本音――。天下の「アントニオ猪木」が一瞬だけ人間「猪木寛至」に戻った瞬間ではないか。

 それから、猪木さんは実に2年9か月もの間、病魔と戦い続けた。コロナ禍もあって、なかなかお会いできなかったが、今年7月に猪木さんの弟子、〝元暴走王〟小川直也氏と「KENSO」こと鈴木健三氏に頼み込んで、面会に立ち会わせてもらった。

 車イスの猪木さんは笑みを浮かべて「元気だった? ホントに長いことやってるよね~。俺もさ、3回お迎えに来たんだけど、迎えてくれないんだよ、フフフッ…」と、ブラックすぎるアントンジョークをかましてくれた。

今年7月のアントニオ猪木さん
今年7月のアントニオ猪木さん

 それからわずか2か月たらず。猪木さんとの「次」はあったが、あれが最後になるなんて…。猪木さんと近しい関係者から泣きながら、電話がかかってきた。「いろいろ、楽しかったですよね。昔は本当にみんなで猪木さんといろいろやって…。本当に本当に悲しい」。気持ちは全く一緒。最後に心から感謝の思いを伝えたい。

 猪木さん、ありがとうございます。

(元猪木担当・初山潤一)

 

【追悼動画】秘蔵写真で振り返るアントニオ猪木「燃える闘魂」の軌跡