【球界平成裏面史(57) 平成の怪物・松坂の巻(4)】西武か、社会人の日本石油(現JX―ENEOS)入りかで注目された平成10年(1998年)ドラフトの目玉、横浜高・松坂大輔投手の強固だった意思は、周囲の大人たちのハンドリングで徐々に西武入りへとかじを切っていった。

 ドラフト前に「意中の球団以外なら社会人へ行きます。在京セ・リーグの一つを希望します」と横浜ベイスターズを“逆指名”していた松坂。その希望はかなわず、同年の日本シリーズで横浜に2勝4敗と敗れた西武が交渉権を獲得した。

 18歳の高校生が100人を超えるメディアの前で口にしたその言葉を撤回するのは難しい。ドラフト直後にも改めて「気持ちが揺らぐことはないです」と西武拒否の姿勢を鮮明にした松坂だったが、その結論を巡って連日押し寄せるメディアと賛否の分かれる世論の前で口を閉ざし、ふさぎ込むようになった。

 松坂の父・諭さんは当時「(西武との交渉は)長くかかると思います。私は本人の意思に任せていますが、本人がどこでどういう判断を下すか。越年するかもしれません」と苦悩の日々を送る愛息に言及。「大輔は小さいころから頑固でした。親が何と言っても聞きませんでしたから。ドラフト前に、私が『(社会人入りする場合)3年間は投手にとって長いかもしれない。その間にケガをしたらどうする?』と聞いた時にも『ケガをしたらしたで、それもオレの運命』と気持ちに変わりありませんでした」と息子の性格を語っていた。

 そして誰より甲子園が生んだ大スターをここまで精神的に追い込んでしまった責任を2人の恩師が痛感していた。

 11・20ドラフト直後に松坂家と今後について話し合った横浜高・渡辺元智監督は「今まで自分が言ってきたことに対して18歳なりの責任を感じていると思う。でも今の気持ちは揺れているのではないか。3年間は長いとか、親孝行したいとか、いろいろな気持ちがあるだろうから。小さいころ、巨人に入りたいと言って野球をはじめ、横浜高校に入って地元の横浜がいいという気持ちになった。私がセ・リーグの野球はいい、地元(横浜)の応援はいいぞ、というアドバイスもしました。ただ西武に対しては嫌いな球団じゃないと話していたことも印象に残っています」とぽつり。

 24日の西武との初交渉後、今度は投手・松坂の実質的な“育ての親”小倉清一郎部長が「松坂は横浜(高校)で育ったし横浜(ベイスターズ)にはOBもたくさんいる。権藤さんが投手出身というのもあったから、私と(渡辺)監督とで相談して横浜に入れようとしたのは確か」と進路への関与を認め、謝罪した。

 即プロ野球で勝負したかった本心を隠し、指導者に配慮し過ぎたことで袋小路に入り込んでしまった松坂に、小倉部長は「進路変更は恥ではない」とアドバイスをしたことを語った。その上で「(担当の)岡村スカウトに『松坂を説得するにはどうすればいいか?』と聞かれたので、アイツは頑固だから『社会人の3年間は遠回り』だとか『投手の3年間は長いぞ』という言い方をしてはダメ。『お前の力が必要なんだ』とその気にさせるのがいい」と翻意させるセリフまでレクチャーしたというのだから、この時点で松坂の西武入りは決まったと言っていい。

 そして…。ドラフトから1か月以上がたった12月28日、東京プリンスホテルで盛大な入団発表が行われた。

 実際に松坂がどれだけ早くプロに進みたかったかは西武入団が決まり、年が明けた99年1月、NHK「サンデースポーツ」に松井稼頭央内野手とともに生出演した時の笑顔が物語っていた。