第100回を迎えた全国高校サッカー選手権大会はどう発展したのか。同大会を長年にわたって中継してきた日本テレビの元スポーツ局次長で、Jリーグ東京Vの社長も務めた坂田信久氏(80)は開催地を関西から移転し、決勝戦を行う東京・国立競技場を満員にすべく悪戦苦闘した実情を告白した。

【高校サッカー100年の舞台裏(3)】これまでNHKが決勝だけを中継していた選手権は、第50回大会(1971年度)から日テレなど民放各局が協力し、放送を行うようになった。さらに長年にわたって関西で開催されていた大会を首都圏(東京、千葉、埼玉、神奈川)に移転。第55回大会(76年度)から「決勝は国立競技場」を猛アピールし、高校サッカーの注目度は高まっていった。

 坂田氏は試合中継を任される中で「せっかくテレビで全国中継するならば、見栄えも良くなるようにもっと、たくさんのお客さんを入れたかった。声援が多い方が選手たちのパフォーマンスも上がる。それに各校の地元も、大会も盛り上がるから」と集客にも乗り出した。スポーツ局員が大会のチラシを製作し、駅前で配ったり、ポスターやキャッチコピーも局員らがアイデアを出して自作した。

 その一方で、坂田氏は選手権に出場する地方の各校を回り、チームを支援する人々にもスタジアムへの来場を熱心に呼びかけた。「観戦をお願いすると『バス代出るのか』『宿代は出るのか』とか言われるんだけど…。それでも、ちゃんと応援しに来てくれてね。それでハーフタイムに支援する方々に恩返しってほどではないけど、インタビューするわけ。その姿が地元で流れれば、功労に報えるかなと思ってね。実際、みんなに喜んでもらえたよ」

 高校サッカーの常連校で名将・古沼貞夫監督が率いる東京・帝京高にも足を運び、生徒たちのスタジアム来場を要請したという。坂田氏は「(東京)西が丘競技場で試合があったときに、生徒を引き連れて応援に来てくれた。それは本当にうれしかった。学校から30分くらいかかるんだけど、わざわざ歩いて来てくれた。スタンドも満員になって、試合もすごく盛り上がった」。

 こうした地道な努力が実を結び、第55回大会決勝の浦和南(埼玉)―静岡学園は約6万人が来場。国立競技場は超満員となった。坂田氏は「試合前にスタンドを見て本当に感動したよね。サッカーで国立が満員になるなんて。僕にとっては一番、忘れられない試合だよ」と、しみじみ語っていた。