記念すべき第100回を迎えた全国高校サッカー選手権大会は28日に開幕した。同大会を半世紀にわたって中継してきた日本テレビの元スポーツ局次長で、Jリーグ東京Vの社長も務めた坂田信久氏(80)は、開催地を関西から首都圏に移転し「決勝は国立競技場」とした理由について語った。


【高校サッカー100年の舞台裏(2)】これまでNHKが決勝だけを中継していた選手権に、民放各局が参入。第49回大会(1970年度)から中継を始め、第50大会からNHKを〝追い出し〟日テレを含む全国の民放38社(現在は43社)で放送することになった。全試合を全国テレビ中継することで、高校サッカーの存在を世間に知らしめ「お正月の風物詩」と呼ばれ始めるようになった。

 坂田氏は「中継してよかった。すぐに大きな反響があったからね」と話す一方、ある懸念があったという。「当時の高校サッカーは関西で開催していた。高校野球の甲子園は、関西でしょ。選手権も全国にテレビ放送されて注目されるようになったんだけど、盛り上がりは今ひとつだった。それで調査会社に依頼していろいろ調べたんだけど、その結果、関西で開催することに限界があることがわかった」と振り返る。

 大阪では高校野球への興味が非常に高く、サッカーへの関心が薄い土地柄だった。選手権のさらなる発展には、多くのファン方々に来場してもらうことが不可欠だったが、関西開催が大きな障害になっていたという。そこで日テレが中心となり、認知度の向上に向けて開催地の変更を検討。首都圏(東京、千葉、埼玉、神奈川)で実施することを決めたという。

 坂田氏は「高校サッカーの決勝は国立競技場にしようとね。高校野球とか他の競技と差別化したかったのはもちろんなんだけど、高校サッカーをもっと盛り上げたかった。それで首都圏に移すことにしようと…。まあ、何十年も続いているものだったんで、関西や大阪のサッカー関係者にはかなり恨まれたけど。今でも大阪で僕のことを『許さない』って言う人もいるからね」と説明した。

 その上で「それでも首都圏で実施することになり決勝戦は国立競技場で開催することになった。象徴みたいなものあることで、みんなが〝目指せ、国立〟とか言ってくれるようになった」と目を細めた。