【多事蹴論82】オシムジャパンで勃発したMF遠藤保仁と反町康治コーチの“壮絶バトル”とは――。高校サッカーの名門鹿児島実業から1998年にプロ入り(横浜F)し、99年にはU―20日本代表として臨んだ世界ユース選手権(現U―20W杯)で準優勝。2002年にはA代表に初招集されて以降、国際Aマッチ152試合(15得点)という記録を作った。09年にはアジア年間最優秀選手も受賞した名プレーヤーで1月に現役引退を表明した。

オシムジャパンの〝参謀〟反町コーチ(右)
オシムジャパンの〝参謀〟反町コーチ(右)

 そんな遠藤が日本代表活動中に珍しく語気を強めたことがあった。日本代表が06年ドイツW杯に惨敗した後、イビチャ・オシム監督が就任したときのことだ。指揮官は10年南アフリカW杯に向けて遠藤の卓越した戦術眼を高く評価し、チームの中心となれるように、さらなる走力アップを要求。そこで08年北京五輪を目指すチームの監督で日本代表のコーチを兼任していた反町氏に「もっと遠藤を走れるようにしてくれ」と指示を出したという。

 遠藤は的確なポジショニングや先読み力を誇り、効率の良いプレーが持ち味の一つだったことから「運動量が少ない」とみられることも。ただ“得意分野”ではないのも事実。そこでオシム監督は遠藤のスタミナと走力を世界レベルに引き上げることが日本代表のレベルアップにつながると考えていた。そんな指揮官の“特命”を受けた反町コーチはハッスルし「俺の仕事は遠藤をもっと走れるようにさせることだから」と強い決意を語っていた。

 そこから反町コーチは遠藤をマンマーク。練習中に「ボールを追って、間に合うよ」「まだ走れるよ」「もっと行けるぞ」「早く戻って!」など、まるで“専属コーチ”さながらに大声で指示を出しまくっていた。他のイレブンも反町コーチの多すぎる指示に苦笑い。特に紅白戦では試合中にずっと「エンドー」の名前を呼び続けるなど、オシム監督よりも目立つ場面も多かった。

 トップ選手が集まる日本代表という舞台で指示を受け続ける遠藤はまるで反町コーチの声が聞こえていないかのように淡々とトレーニングを続けていた。ある日の練習後、本紙記者の直撃に「反町コーチの指示? あー聞こえてますよ、一応…。走っているって。こっちもわかっているんですよ。そんなに全部言わなくてもね。しつこいんですよ、本当に…」と普段のゆったりとした語り口とは違って少し強めの口調で語っていた。

 オシム監督は07年11月に脳梗塞で倒れて、退任。反町コーチも北京五輪代表の指導に専念するため、同年7月にコーチ職を退いた。遠藤は後任となった岡田武史監督の下でも活躍し、南アW杯1次リーグ最終戦デンマーク戦では華麗なFKゴールを決め、43歳まで現役を続けた。これもオシム監督時代に受けた熱烈指導のおかげだったかもしれない。(敬称略)