【プロレス蔵出し写真館】今から37年前の1984年(昭和59年)4月11日、埼玉・大宮スケートセンターでユニバーサル・プロレス(旧UWF)が旗揚げされた。エースの前田日明は、ダッチ・マンテルをジャーマンスープレックスでフォールして勝利し「俺は、今までの俺とは違う。ファンに媚びるプロレスはやらない。猪木さんだって、そうだった」と絶叫した。

 ところで、取材を終えて社に戻った私は前田の写真を出稿して、翌12日からの新日本プロレス取材のため出張準備をしていた。すると、プロレス担当の運動部長に声をかけられた。

「試合写真は代わり映えしないから、なにか面白い写真頼むよ」。面白い写真の対象は藤原喜明だった。

 藤原は、3月30日に開幕した新日本プロレスの「ビッグファイト・シリーズ第2弾」後楽園ホール大会で、UWFの旗揚げ戦に乗り込み「前田をぶっ潰す」と参戦を直訴していた。猪木は黙認する姿勢だったが、藤原は通常通り新日本の巡業に参加していた。

〝テロリスト〟藤原の面白い写真――前田戦に向けた企画写真なのは明白だった。

 翌日の昼過ぎ、福井・敦賀に到着してスポーツ用品店に飛び込み、木刀を1本購入した。それから新日本の宿舎へ向かい、藤原に声をかけた。国指定の名勝地「気比の松原」が宿舎から徒歩で行ける距離だったので、そこに連れ出し、恐るおそる藤原に写真のイメージを伝えた。

「何っ!? 海に入れだと?」そう聞き返してきた藤原だが、おもむろに上半身裸になり、シューズを脱ぐとジャージのまま足場を気にしながらゆっくりと海へ入って行った。

 意外にも本人は気に入ったようで、「コラー前田~!」と叫びながら木刀を振ってくれた(写真)。

 試合後は、記者も同席して猪木、藤原と酒を酌み交わした。「面白いアイデアだった」。思いがけずお褒めの言葉を頂き、忘れられない日となった。

 藤原と前田の対戦はUWFの最終戦、4月17日の蔵前国技館で実現。喧嘩ファイトとなり、大流血戦を展開して両者フェンスアウト。前田がアピールして再開した延長戦も、前田のジャーマンを藤原が右足をフックして自爆させ、両者カウントアウトのドローとなった。2人は握手をかわし、幕切れはさわやかだった。

 マッハ隼人が前田を肩車してグラン浜田、ラッシャー木村、剛竜馬が周りを囲み前田を称えた。藤原は控室に戻ると、シリーズに参加していた外国人レスラーのスコット・ケーシー、ボブ・スウィータン、ビニー・バレンチノらに囲まれ次々に握手を求められた。

 藤原はその後、内容証明付きの退社願を送付して新日本を退団し、高田伸彦(後に延彦)とともにUWFに移籍する。同年6月27日に東京・飯田橋のホテルグランドパレスで入団会見を行った藤原は、ウイスキーをラッパ飲みしながら冗舌に質疑応答に対応した。

 しかし、「猪木に贈る最後の言葉」を問われると、電話で猪木にも激励されたと語ったあと「自分は人間的、レスラーとしても〝アントニオ猪木〟を尊敬しています。裏切ったことは残念…断腸の思いです!」と厳しい表情で語った。
 
 今年9月、藤原は闘病中の猪木とユーチューブで笑顔で語り合っていた。紆余曲折あったが、藤原の猪木に対する尊敬の想いは不変だった。(敬称略)。