【プロレス蔵出し写真館】今から41年前、1984年(昭和59年)9月20日の大阪大会でアントニオ猪木が大相撲元大関小錦の実兄アノアロ・アティサノエを異種格闘技戦で下した。

 シリーズが無事終わったのもつかの間、翌21日、新日本プロレスは大激震に見舞われることとなる。

 長州力を始めとする維新軍団の5人が〝まさか〟の離脱。永田町のキャピトル東急ホテルで会見を行ったのだ。この後、数日のうちに追随する選手もいて、新日プロは選手の大量離脱に見舞われた。

 これにより、一致団結をスローガンに若手を鍛えた箱根合宿は、今でも語り草だ。  

 9月26日から神奈川・箱根湯本で始まった合宿は、午前6時30分に起床すると7時から往復10キロの起伏の激しい山道を1時間30分で走破するロードワーク。午後2時から、合宿地横の空き地に設置した仮設リングでスパーリングを中心とする実戦、ウエートトレをみっちりと3時間こなす。

 藤波辰巳(現・辰爾)が先頭になり猪木、星野勘太郎らが投げ役となり受け身の練習。実戦スパーでは猪木が積極的に若手を指導する。その後は各自自主トレで汗を流した。

「旗揚げ当時の新日本プロレスに戻りましたよ。若い選手にもあの当時、ギャラももらえずにリング上で夢を追ってたころのパワーを肌で感じてもらいたい」。猪木、藤波、山本小鉄審判部長ら旗揚げ当時の面々は若手に〝なにか〟を伝えようとしていた。

 練習が終わって「一致団結」のボードと写真撮影に納まったのは前列左から後藤達俊、ブラック・キャット、小杉俊二、星野、荒川真(後のドン荒川)、笹崎伸司、山田恵一(後にリバプールの風)、船木優治(現・誠勝)、中列左から小鉄、橋本真也、坂口征二、藤波、猪木、木村健吾(後に健悟)、佐野直喜(後に巧真)、韓国の留学生・金秀洪、野上彰(後のAKIRA)、後列左から蝶野正洋、柴田勝久レフェリー、留学生のロッキー・イヤウケア、プロレス転向のアティサノエ、武藤敬司、畑浩和、森村方則(後のリッキー・フジ)だ。

 蝶野は「あの合宿って9月だったんだ…もっと前、7月ぐらいの時期かと思ってた。一致団結って理解してたけど、状況は理解できてなかった。オレら、まだデビュー前の新弟子くんでしかないから、扱い的に。まだ部外者ですもんね。お客さんなんですよね」と振り返る。

「武藤さんが10月(5日)の(闘魂シリーズ)開幕戦でデビューするのが決まっていた。オレは1年くらいかけて翌年のデビュー戦を目標に、くらいでしか思ってなかった。ところが、開幕戦は長州さんたちの離脱でカードがグチャグチャになって、第1試合の武藤さんの対戦相手が決まってなくて…。30分前になってレフェリーの柴田さんがチェックして『武藤の相手いねぇぞ』って控室が大あわてになった(笑い)」(蝶野)

 蝶野は「当日の30分前に『お前が武藤の相手だよ』と言われた。この間の武藤さんの引退試合(2023年2月21日、東京ドーム)でリングに上げられたのと一緒ぐらいビックリしましたよ」と笑う。

 蝶野と武藤は、同じ日にお互いデビュー戦として対戦したことが知られているが、蝶野のデビューは急きょ決まったものだった。

「オレはまだデビューできるようなレベルではなかったと思う。基礎的なレスリング系がまだ全然できてなかったんで。その前の(獣神サンダー)ライガー、畑、佐野さんとかって1年ぐらいかかってのデビュー。それが定説みたいになってたから、オレはそういうレベルで考えてた」と蝶野は明かした。

武藤(奥)と急きょ決まったデビュー戦で奮闘する蝶野(1984年10月、埼玉・越谷)
武藤(奥)と急きょ決まったデビュー戦で奮闘する蝶野(1984年10月、埼玉・越谷)

 とはいえ、10月15日の金沢大会で野上を逆エビ固めで破って初勝利を挙げると、25日の徳島大会では逆エビ固めを決め、武藤にリベンジを果たしている。

 さて、そんな蝶野は誕生日の9月17日に書籍「蝶野正洋 プロレス名勝負とあの事件の裏の裏」(ワニブックス)を上梓した。

 蝶野は「当時はいち選手として、自分の試合しか気にしてなかったので興行や前後の試合、新日本と様々なシチュエーションを今、振り返ると驚くようなことばかり。プロレス業界、新日本を改めて振り返ると歴史は違って見える。そんな本になってます」と語った(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る