【石井和義の光と影#21】1995年3月にスタートした「K―1」は国内外で大きな話題を集めました。そこで日本人の選手層が厚く、一番強みを発揮できる中量級のトーナメントを立ち上げます。それが2002年に開催した「K―1 WORLD MAX」。その中量級の大会を中心選手として引っ張ってくれたのが、キックボクシング出身の魔裟斗です。彼がいなければ、あの舞台は生まれませんでした。

 もともと、ある関係者から「スター候補がいる。顔が良くて強くて元気のいいヤツがいる」と紹介されて、目をつけていたんです。それで魔裟斗本人と、当時所属だった藤ジムの加藤重夫会長に会って「僕らの方で魔裟斗を預からせてください」とお願いをしました。その時、魔裟斗には「君を中心に新しいK―1をやる。君ありきでやるよ」と伝えたんです。

 それで最初に行ったのが引っ越しでした。もともと住んでいたところから港区にマンションを借りて住まわせたんです。カリスマ性を出す…というか演出するためでした。それから後輩の宇佐見陽雄に「君に魔裟斗を預けるから」と頼んだら「シルバーウルフ」とか「反逆のカリスマ」というイメージをつくってくれた。そして、三軒茶屋にジムも出して始めていったんです。

 当時の思惑としては、魔裟斗を中心に使いながら「K―1」の中量級を伸ばしていきたかった。ヘビー級でも最初は佐竹雅昭をスター選手にしようと「熊殺し」の異名を持つウィリー・ウィリアムス(米国)とやらせたりしたけど、やっぱり必ず日本人エースが一人は必要なんです。それが魔裟斗だった。その先に見ていた軽量級は同じくキックボクシング出身の前田憲作がいいと思っていたんです。

魔裟斗(右)をスターに指名した石井館長(02年2月)
魔裟斗(右)をスターに指名した石井館長(02年2月)

 実際、期待以上に魔裟斗は頑張ってくれました。そうやってイメージをつくりながら開催した小さい会場の試合をTBSの人たちに見せたんです。すると、すぐに「これはいい」となって、スポーツ局で中継することになった。つまり、魔裟斗ありきで「K―1 WORLD MAX」は始まったんです。

 プロデュースというのは、みんなの力を集めて最初の仕掛けをどうするか。それが一番重要なんです。スタートしてしまえば、どんどん走りだします。資金も潤沢にあったから順調でしたよ。お金を借りる必要なんてまったくありませんでしたから。脱税する必要もありませんでした。余談になりますが、あのころのK―1でも銀行からお金を借りることはできませんでした。それは今と一緒です。だからみんな苦労するんですよね。

 そして02年ごろ、知り合ったのが、日本中に大ブームを巻き起こし、人気者になったボブ・サップ(米国)でした。

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