【プロレス蔵出し写真館】3月22日にテレビ朝日系で生中継されたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の決勝「日本VS米国」の平均世帯視聴率が42・4%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)だった。大谷翔平らの活躍で盛り上がった侍ジャパンの試合は7試合連続40%超えだ。

 さて、プロレス界の高視聴率といえば、1963年(昭和38年)5月24日、日本テレビ系で中継された東京体育館の力道山VS〝白覆面の魔王〟ザ・デストロイヤーのWWA世界ヘビー級選手権だ。

 平均視聴率64%(ビデオリサーチ調べ)を記録した、今から59年前に行われた試合。娯楽がテレビだけという時代とはいえ、驚異的な数字で歴代視聴率4位は驚きだ。

 デストロイヤーといえば力道山の死後も日本プロレスに来日し、当時の日本人エースと対決するトップレスラーだった。64年11月に来日したときの相手は〝怪力〟豊登。自身の保持するWWA世界王座防衛戦が組まれていた。

 来日第1戦は12月1日、大阪府立体育会館。ビル・ドロモ、クルト・フォン・ストロハイムを従えメインに登場し、豊登&ジャイアント馬場&吉村道明組と対戦。1本目を日本側に先取されたあと、2本目、吉村を得意の足4の字固めでギブアップさせた。3本目は吉村が立ち上がることができず、カウントアウト。39秒で試合放棄により2―1で快勝した。

 デストロイヤーの4の字固めはレフェリーの沖識名やセコンドの手を借りなければ、ほどくことが無理という強力な技だった。
 
 翌2日、近鉄特急の車内にドロモとポーカーを楽しむデストロイヤーがいた。名古屋での試合に向け電車に乗り込んだデストロイヤー。車内の乗客、そして外からも多くの人たちから窓越しにのぞき込まれ、注目を浴びていた(写真)。

 名古屋に到着し、駅で買ったスポーツ新聞を小脇に抱え、宿舎の都ホテルにチェックイン。「日本語は読めないが、写真を見ればだいたい内容は見当がつく。外国へ来て、新聞にこんなにデカデカと書かれるのは大統領並だ」。そう言って上機嫌(当時の記事から抜粋)。各スポーツ紙にはプロレスの記事が掲載されており、東スポは1面で写真を中心に試合結果を載せ、3面で試合を詳報。そして5面ではデストロイヤーの特集記事を掲載していた。

 2日後の4日、東京体育館での防衛戦では豊登に敗れデストロイヤーは王座を失った。翌65年2月26日、東京体育館でリターンマッチを行ったが、この試合はユーチューブでも視聴できる。

デストロイヤーにアームバーを決める豊登(65年2月、東京体育館).
デストロイヤーにアームバーを決める豊登(65年2月、東京体育館).

 1本目は2分過ぎに豊登にアームバーを決められ、この技を外そうとする攻防が長時間続く。ところが、解説の芳の里(日本プロレス代表)は「こうやってたら豊登君のほうがだいぶ疲れますよ。向うの方(デストロイヤー)が楽なんですよ」と、身もふたもない説明。

「あれはどのへんを攻める技ですかね。腕が痛いんですかね、やっぱり」とアナウンサーが確認すると、「腕とね、だいたい、こっちの動脈ね(※頸動脈と思われる)。あそこも思い切って右の方の足で押してるわけですよね。結局、だから呼吸ももうだいぶ苦しいわけですよ。手がしびれちゃうんですよ。思い切って引っ張られてますから」と、とりあえずフォローした。

 結局、20分48秒でデストロイヤーがキチンシンク2連発からニースタンプをノド元に叩きつけ3カウントを奪ったが、ほとんどが地味なアームバーの攻防に終始した。しかし、様ざまな脱出法を試みるデストロイヤーと執拗にアームバーを決める豊登の攻防をジッと目を凝らし注視する観客。レフェリーに大声でアピールするなど、単調な技にもかかわらず客を飽きさせないデストロイヤーの試合巧者ぶりが光った。

 2本目は豊登の逆エビ固めにギブアップ。3本目は時間切れ引き分け。アームバーで3分の1の時間を費やし61分時間切れドローは今の時代にはそぐわないだろうが、不思議と〝見れて〟しまう。

 余談だが、WWAという団体は伏魔殿といわれていた。後年、高視聴率だった力道山の試合はノンタイトル戦だったことが明らかになり(直前の防衛戦でデストロイヤーはフレッド・ブラッシーに敗れ王座を失っていた)、64年に豊登が王座を奪取したことも認められてはいなかった。

 とはいえ、65年の豊登戦はビデオリサーチで51・2%を叩きだし、全局高世帯視聴率番組50で35位にランクインしている。

 19年3月7日にデストロイヤーが亡くなり、早4年。記憶は薄れていくが、記録はしっかり残っている(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る