【マンマーク サムライDF水本裕貴の奇跡(1)】2022年シーズン限りで現役を引退した元日本代表DF水本裕貴氏(37)が半生を語る新連載「マンマーク」がスタート。第1回はサッカーに取り組むことになったキッカケと父親の猛反対など、Jリーガーになるまでの過程を振り返った。

 1993年5月にスタートしたプロサッカーのJリーグに大きな衝撃を受けました。当時7歳で小学生だった僕は華々しくきらびやかな世界に夢中になり、中でも開幕カードで対戦したV川崎(現東京V)のカズ(三浦知良)さんと横浜Mの井原(正巳)さんにあこがれを抱いていましたね。

 僕が育った三重県の御薗村(2005年に合併し、伊勢市)は愛知・名古屋文化の影響を受けている地域。それでも通っていた御薗小学校では“地元”の名古屋グランパスよりも、カズさんのV川崎、井原さんの横浜Mが圧倒的人気で学校を二分する大ブームとなります。自然と「サッカーをやりたい」と思うようになりましたね。

 そこでサッカーの少年団入りを両親に相談したところ、父は猛反対どころか大激怒でした。野球好き(特に中日の大ファン)で草野球をしていた父は納得できなかったようです。そこで立浪(和義=現中日監督)モデルのグラブを買ってくれてたり、草野球の試合に連れていってくれたりと野球に引き戻そうとしてましたが、母は、僕のやりたいことを理解して父を説得。御薗SSSでサッカーを始めます。

 少年団では指導方針もあってGKを含めてすべてのポジションでプレーしました。のびのびやらせてもらうと、守備面が評価されて小5の96年には初めて同地域の伊勢市選抜入り。小6で県選抜にも選ばれ、このころから本格的にDFに専念することになります。そして進学した御薗中はサッカー部がなく、サッカー部のない地域の中学生がプレーする伊勢SCジュニア(現ソシエタ伊勢SC)でプレーしました。

 周りにはうまい選手がたくさんいましたが、中学時代も県選抜に選ばれて、進学の際には名門・四日市中央工業高と進学校の三重高から声をかけていただきました。かなり迷いましたが、寮暮らしになる名門校に行くよりも、自宅から通える三重高への進学を決意。常勝の四中工に勝って初めての全国大会(高校総体)に出たときはうれしかったですね。

 高校でも県選抜に選ばれるようになり、高2の夏には川崎や市原(現千葉)の練習に参加させてもらって「Jリーガー」を意識するようになります。多くのJクラブが僕に興味を持ってくれたようです。その後、正式に入団オファーがあったのは市原と柏でした。