【異業種で輝く元プロ野球選手】グラウンドから教壇へ――。球界を離れ異色の現場で働く元プロ野球選手がいる。楽天、阪神で計6年間プレーした西谷尚徳さん(36)。現在、立正大法学部の准教授として学生相手に熱弁を振るっている。

「昨年から准教授になり、大学では教育学が専門です。1年生の授業では主に文章や論文、リポートの書き方、2年生以上やゼミ生には『フィールドワーク』などの指導を行っています。実際に社会で体験しながら学習する協働学習です」

 研究室でこう話す西谷さんは2004年に明大からドラフト4巡目で楽天に入団。俊足巧打の即戦力野手として期待された。だが、プロ入り前からの度重なる故障もあり09年に戦力外。トライアウトを経て阪神の育成選手として再起を図ったものの、再び1年で戦力外通告を受けて現役引退。11年から明大在学中に高校の国語教員免許を取得していたこともあり、教職の道に進んだ。

「プロに入る前から『野球を辞めたら国語教育、文章教育をやりたい』と思っていたので、引退直後からいろいろな高校、大学に自分の履歴書を送りました。何通送ったかは覚えていませんが、結構な数です。教員は今も昔も狭き門ですから。ただ、私の場合はツテなどもあり、多摩大聖ヶ丘高の国語教師(現代文、古典)に立正大、明星大の非常勤講師という3つの職をもらえたのです」

 一見すれば順風満帆に思える転身だが、野球を辞めた直後から教壇に立つことは容易ではない。その過程には現役時代からの努力があった。

「体が小さく、体力にも自信がなかった」と言う西谷さんはプロ入り直後から他の選手との実力差を痛感。そこで始めたのが第2の人生に向けての「準備」だった。プロ1年目から時間を見つけては教育学の専門書を次々と読破。独学で教養を身につけた。本格的に野球と勉学の両立を決断したのはプロ3年目に入る直前。古傷だった右ヒジ内側側副靱帯を損傷、手術を余儀なくされたことがきっかけだった。

「リハビリのため3年目のシーズンを棒に振ることになったので『それならこの時間を有効に使おう』と。このころには教員になるため通信制の大学院に入る準備もあったので。そこから引退までの期間は『野球の合間に勉強』という日々でした」

 春季キャンプの宿舎にはパソコンと専門書を持参。シーズン中の移動や遠征先にも勉強道具を持ち込み、1日2時間以上を勉学に費やした。試合が雨天中止になれば、外に繰り出す同僚を横目に自室へ直行。時間の許す限り机にかじりついた。

 そんなプロ生活を続けていれば当然、周囲からは奇異の目で見られる。一部コーチや先輩からは「プロなんだから野球に専念しろ!」「勉強する時間があるなら練習しろ!」。ののしられたり叱責されることも珍しくなかった。それでも「野球で手を抜いているわけではないし、クビになってから何かを始めるのでは遅い」と自ら言い聞かせ自己流を貫いた。その結果、楽天在籍中の09年に明星大大学院人文科学研究科教育学の修士課程に入学。その後2年間も野球を続けながら学業習得にいそしんだ。
「プロ野球選手である以上、現役中は野球に集中すべきかもしれません。でも、辞めてから球界に残れる選手は一握り。大半は突然クビを通告され一般社会に投げ出される。それなら選手も現役中から将来に備えた準備をすべき。野球をしながらでも資格を取ったり勉強することはできるので」

 自らの経験を基に球界へ一石を投じる西谷さん。今ではその姿勢に共感を持つ野球関係者も多い。昨年は日本ハムからの要請でシーズン中の5月から月1回のペースで計4回、二軍選手を対象にした特別講義を開催。大学で行う教育学の授業を二軍施設で行い、清宮や東大出身の宮台らを指導した。
「清宮君は一番前の席で熱心に講義を聴いてくれた一人。若い選手が少しでも引退後のことを考えてくれれば野球界も変わっていく。学生にも将来を見据えた学習を大学時代にしてほしい。その手助けをできるよう教育を通じていろいろなことを提供していきたい」

 努力を重ね道を切り開いた苦労人はその思いを伝えるべく今日も教壇に立つ。

 にしたに・ひさのり 1982年、埼玉県生まれ。明大から2004年ドラフト4巡目で楽天入団。06年に一軍初出場も09年に戦力外通告。10年に育成選手として阪神に入団も1年で戦力外となり現役引退。11年から多摩大聖ヶ丘高の国語教師、立正大(国語)、明星大(体育)の非常勤講師を兼任し、13年に立正大法学部に着任。特任専任講師を経て18年から准教授。プロ通算成績は16試合で50打数12安打。