【プロレス蔵出し写真館】アントニオ猪木がツイッターで、7月8日に奈良県内での遊説中に凶弾に倒れた安倍晋三元首相を追悼した。

 猪木は「安倍さんとは結構付き合いがあったんで、何と言うのか、惜しい人を亡くした。こういう影響を持った人が日本の中から消えて行くのは寂しい事であります。私も断片的な情報だけですので、改めて正式にコメント致します」とつづっていた。

 猪木も、スポーツ平和党を立ち上げ参議院議員に初当選した年に暴漢に襲われ、刃渡り20センチのナイフで切りつけられるという惨劇に見舞われた。

 今から32年前の1989年(平成元年)10月14日、猪木は福島県会津若松市城東の県営体育館で行われた、衆院選福島2区から立候補予定の民社党衆院議員を励ます会でスピーチしていた。

 話し始めて約5分、トレーニングウエア姿の男がナイフを手に猪木の左背後から近づき、左耳付け根から後頭部にかけて無言で切りつけた。猪木はとっさにマイクでディフェンスしたが、約6センチ切られて流血。

 男はすぐさま猪木の秘書や係員に取り押さえられ、舞台から下に落とされた。そして、会場が騒然とする中、関係者に連れ出された。猪木は傷口を左手で押さえ、その後も約4分間スピーチを続けた。

 そして、会津若松市内の竹田綜合病院に救急車で運ばれ手当てを受け、10針縫い全治2~3週間と診断され入院した。

 ナイフで襲われる写真は、福島民報社提供で共同通信から加盟社に配信されたため、写真は見ていたが、モノクロで遠めで撮影されていてピントもクリアではなく、それほど緊迫感は伝わらなかった。

 しかし、翌15日の朝に会見を開いた猪木は、負傷した頭部をネットで覆い、白いガーゼが左耳からノドに貼られ痛々しい姿(写真)。

「だいぶ痛かったですね。痛みで昨日眠れなかった」

 そう話す猪木の顔は真っ青だった。大変な事件だったのを実感した。

 切りつけた犯人は「昔の仕返し」と言ったことを聞いた人もいたが、猪木のソ連(当時)外交に抗議する右翼関係者との説もあった。

 猪木は会見後に帰京し、自らが大会実行委員長を務める「留学生オリンピック」で開会あいさつするという強靭さを見せたが、あいさつを終えるや、すぐさま東京逓信病院へ再入院。「首のところの傷がもう少し深ければ危なかった」(東京逓信病院・池内宏整形外科部長)という。

 あわや命を落としかねない、おぞましい事件だったのは間違いない。

 ところで、猪木と安倍氏は14年(平成26年)3月12日、参議院予算委員会での、やり取りが話題になった。日本維新の会所属だった猪木は北朝鮮問題で質問に立ち、当時首相だった安倍氏に「元気ですか!」と大声を張り上げた。あとから山崎力予算委員長に、「最初のご発声は元気が出るだけでなく、心臓に悪い方もいらっしゃると思いますので今後はお控え願いたい」と注意を受けた。

 安倍氏は質疑応答のやり取りの中で「私も子供のころ、猪木さん対ブルーノ・サンマルチノとの戦いを手に汗握ったこと、ハルク・ホーガンとの戦いもテレビの前で熱中したことを覚えております」とフォローした。

 猪木と〝人間発電所〟サンマルチノとの対戦はタッグで数戦のみ。初対決は68年(昭和43)年8月3日、日本プロレスの横浜市蒔田公園球場特設リング。猪木がジャイアント馬場とタッグを組みサンマルチノ、スカル・マーフィ組と対戦。9日は田園コロシアムで馬場と保持するインタータッグ王座防衛戦でサンマルチノ&レイ・スチーブンス組と激突した。その後は71年11月27日の川崎市民会館(猪木&馬場VSサンマルチノ&ドン・デヌーチ)。

 14年3月14日付の東スポ紙面で、安倍氏が見たのは13歳、成蹊中学2年だった68年のインタータッグ戦の可能性が高いと報じた。しかし、サンマルチノは馬場のライバルとして知られ、この試合でも猪木とはほとんど絡んではいないとの注釈付き。

 安倍氏の勘違いなのか、あるいはサンマルチノが好きだったのか…。また、単にリップサービスだったのかは〝永遠の謎〟になってしまった(敬称略)。