【山本美憂もう一息!(3)】 小学校低学年の頃、レスリングに女子という種目がない中で男の子たちに交ざって大会に出場し、2度目の大会からすべて優勝するようになりました。でも高学年になる頃、別のスポーツに興味が出てしまったんです。それはフィギュアスケート。当時、伊藤みどりさんやカタリナ・ビットさんが活躍していて、大人気でした。あと男子の藤井辰哉さん。氷上で華麗に舞う選手たちにすっかり魅了され、両親に「フィギュアスケートをやってみたい」とお願いしました。両親も許可してくれ、レスリングは辞め、スケートリンクに通うようになりました。

 フィギュアスケートは練習もすごい好きだったんですよ。でも寒いリンクと屋外の気温の変化のせいか、風邪もひいていないのに何度も中耳炎を繰り返すようになってしまって。そのたびに耳を切開して膿を出して、となる。とっても痛い。これは体調的に続けるのは難しいなと思い、1年くらいで辞めてしまいました。

 ちょうどもう一度、レスリングに引き戻るきっかけもありました。1986年4月、父に連れられ、代々木第二体育館で行われたレスリング男子の国際大会「スーパーチャンピオン・カップ」を見に行きました。フリースタイルの世界トップ選手が集結し日本代表と対決。レベルの高い熱戦が繰り広げられました。その場で女子のエキシビションマッチが行われたのです。

 当時、欧州の一部の国でしか行われていなかった女子を福田富昭さん(※1)が日本はもちろん、世界中に普及させようと尽力していました。女子第1号選手の大島和子さんが前年にフランスの大会に出場したばかり。福田さんは全国からレスリングに興味がある女性たちを集め、合宿所で生活させて指導を始めたところでした。目の前で欧州の強豪選手と戦っていたのは、その女性たちでした。

 大人の女性がレスリングをする様子を初めて見ました。でも、彼女たちは始めたばっかりで、動きがまだぎこちなくてレスリングになっていなかった。私は率直に「あ、私いけちゃうじゃん! これなら私も世界で勝てるな」と思ったんです。すぐにマットに復帰。7月の全国少年大会(小学5~6年の部 30キロ級A)で優勝しました。

 中学に進学してもレスリングを続けました。以前なら、ちびっ子でどんなに頑張っても中学進学でレスリングを辞める女の子が多かったのですが、少しずつ流れが変わってきていました。大人の選手が増えてきて大会も新設され、私にも女性同士で対戦する機会が訪れたのです。

※1 現日本レスリング協会名誉会長。女子の普及に努め「日本女子レスリングの父」と呼ばれる
 
 ☆やまもと・みゆう 1974年8月4日生まれ。神奈川県出身。72年ミュンヘン五輪代表の父・郁榮氏の影響で小2からレスリングを始める。87年に中1で女子初の全日本選手権を制覇(44キロ級)し、47キロ級も含め5連覇。同選手権では計8度の優勝を誇る。91年、年齢制限のある世界選手権に特例で出場し史上最年少の17歳で優勝。94、95年も世界を制した。2016年にMMAに転向し「RIZIN」で女子格闘技をけん引。3人の子を持つ母。156センチ。