僕の指が折れているのを知りつつ種田トレーナーは…

2020年06月11日 11時00分

正田の立場を考えてくれた種田トレーナー。左は新井

【正田耕三「野球の構造」(27)】好事魔多しとはよく言ったものです。二塁のレギュラーへと大きく前進した入団2年目の1986年は、これからというときに思いもよらないハプニングに見舞われました。

 6月22日に札幌・円山球場で行われたヤクルト戦で、3試合ぶりに「7番・二塁」でスタメン復帰した僕は2安打をマーク。雨天中止などで4日後になった次戦、26日の旧広島市民球場での中日戦でも3安打するなど、21日の時点で2割5分9厘だった打率は一時的に3割1分9厘まで上がりました。

 7試合連続スタメン出場となった7月5日の大洋(現DeNA)戦を終えて21打数9安打。その間はチームも引き分けを1つ挟んでの4連勝を含む5勝1敗と絶好調で、2年ぶりのリーグ優勝に向けて首位巨人を猛追していました。

 そんな矢先です。7月6日、舞台は前日と同じ新潟県の鳥屋野運動公園野球場でした。0―0の3回表。一死一、三塁か一死一、二塁だったと思います。打者の高木豊さんが放った打球は注文通りの二ゴロで、先発の白武佳久さんは4―6―3の併殺でピンチを切り抜けました。

 ベンチのムードも盛り上がるなか、僕だけはピンチに陥っていました。実は捕球の際に打球がイレギュラーし、右手に当ててしまったのです。その後も痛みをこらえて試合に出続けましたが、2打席連続で凡退していたこともあり、1―2の7回裏に西田真二さんを代打に送られてベンチへ退きました。

 問題は翌日です。この日は甲子園での阪神戦に備えて大阪に移動するだけでしたが、打球を当てた右手中指の痛みは引くどころか増すばかり。腫れ具合から見ても折れているのは明らかでした。

 ひとまず大阪の宿舎に到着してから、僕はチームに帯同していた球団トレーナーの種田博人さんの部屋を訪ねました。先生は僕の右手中指を見るなり「これは折れとる」と断言しましたが、結果から先に言うと、知らなかったことにするというのです。

 種田トレーナーの考えはこういうものでした。「病院に行ってレントゲンを撮ったら骨折と診断されるし、そうなったら登録を抹消される。あとはお前次第だけど、もったいないことはするな。黙っていてやるから」

 今ならそんなことを言うトレーナーはいないでしょう。すぐに監督へ報告したうえで、病院に連れていくはずです。種田トレーナーがそうしなかったのは、僕が打撃コーチの内田順三さんと人の2倍も3倍も練習しているのを知っていたからでした。レギュラーの座をつかみ取るチャンスは、そう何度もありません。種田トレーナーからプロの世界での生き方を学んだ僕は、迷うことなく試合に出続けることを選びました。

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。

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