【この人の哲学:芹澤廣明(作曲家)】中森明菜、チェッカーズ、さらには「タッチ」や「キン肉マン」「機動戦士ガンダムΖΖ」の主題歌など数多くのヒット曲を生み出し、最近は米国デビューも果たした作曲家、芹澤廣明氏(72)。今回からは芹澤氏と売野雅勇氏の作曲&作詞コンビでヒット曲を連発したチェッカーズについて語ります。デビュー前のチェッカーズは超ダサかった!?

 ――前回、チェッカーズのデビュー曲「ギザギザハートの子守唄」(1983年)は、他の人が歌うはずだったという話でした。誰ですか

 芹澤氏 真田広之さんです。事務所からオファーがありましてね。康珍化さんが詞を書いて、「芹澤さん、曲書いてくんない」って。いいのができたなと思ったんだけど、出したら事務所に「真田には合わない」と却下されて。でも気に入ってたから、僕が預かってました。

 ――なぜチェッカーズが歌うことに

 芹澤氏 最初に「涙のリクエスト」と「哀しくてジェラシー」(ともに発売は84年)を作ったけど、どうも線が細い。もうちょっと固いやつを歌わせたいと思ったんです。それで「あ、あの曲があった」とピンときてね。

 ――曲を聴いたメンバーの反応は

 芹澤氏「こんな歌、歌いたくない」「恥ずかしい」って泣いてましたよ。

 ――え! それは意外です

 芹澤氏 彼らはキャロルとかに憧れて、ロックンロールがやりたかったからね。「ギザギザ――」はロックンロールじゃないですから。

 ――チェッカーズはポップミュージックのイメージですが、ロッカーだったんですか

 芹澤氏 彼らはキャロルやクールスに憧れてたんですよ。だからファッションもそっち系。ブーツ履いて、ジーンズはいて、革ジャン着て、頭はリーゼント。だけど洗練されてないからね。要は久留米の不良の兄ちゃんたち。正直、ヤマハもよくこんなの呼んだなと思いました(笑い)。田舎の青年団がバンドやったらこうなりました、ってのが来たんです(笑い)。

 ――デビュー後しか知らないので想像がつきません。そんな彼らがよくあの独特なファッションを受け入れましたね

 芹澤氏 藤井郁弥は上京前、国鉄(現在のJR九州)にいて九州の方で貨物の連結とかをやっててね。「売れなかったら九州に帰って国鉄で働くしかない。とにかく売れたい。なんとかしてほしい」と言ってきました。だから「売れたいならその格好はダメ」って、服装も髪形も変えさせたんです。ヤマハのディレクターと相談して「髪は切っちゃおう」とか、ああしようこうしようって。

 ――それであの髪形とファッションに

 芹澤氏 本人たちも想像しなかった姿にね(笑い)。僕もあの格好で出てきた時は「これでいいのかな」と思いましたよ(笑い)。

 ――メンバーが「歌いたくない」と言った「ギザギザ――」は、当初はヒットしませんでした

 芹澤氏 おかしいな、と思いましたね。チェッカーズのファッションコーディネーターがいたんだけど、そいつは「こんな演歌みたいな曲はダメ! 絶対に売れない!」って言ったんです。最初は本当に売れなかったからショックでした。結局「涙の――」が売れたらこっちも売れたんだけど。演歌で良かったですね(笑い)。

 ――2枚目のシングル「涙の――」はなぜ売れたと思いますか

 芹澤氏 サウンドがしゃれてるからね。アカペラから始まるじゃないですか。当時、イントロからアカペラの歌謡曲ってなかったんです。それが良かった。

 ――フミヤの声を生かそうとして作ったんですか

 芹澤氏 そうです。コーラスも楽器も全部、あの声が生きるようにアレンジしました。ただ、ヤマハはフミヤをメインから外して、新しいボーカルを入れようとしてたんです。

 ――え! またそんな衝撃的な秘話が!? (次週に続く)

 ☆…せりざわ・ひろあき 1948年1月3日生まれ。神奈川県横浜市出身。歌手、ギタリスト、作曲家、音楽プロデューサー。高校在学中から米軍キャンプで演奏し、67年にGSグループ「ザ・バロン」を結成して69年にデビュー。解散後に若子内悦郎と「ワカとヒロ」を結成。その後、作曲家として中森明菜「少女A」(82年)、チェッカーズ「涙のリクエスト」(84年)、岩崎良美「タッチ」(85年)ほか多数のヒット曲を生み出した。2018年に自ら作曲した「Light It Up!」を歌い全米デビュー。今年5月には芹澤氏作曲、売野雅勇氏が英語詞を担当した全米3枚目のシングル「Julia」が発売された。