プロレスと相撲は切っても切れない関係にある。日本プロレスの祖・力道山が大相撲出身の元関脇だったため、生活習慣から用語、技まで多くの要素が相撲からプロレスに持ち込まれた。
相撲の技である「河津がけ」をプロレスのリングに持ち込んだのも力道山だ。“鉄人”と呼ばれたNWA世界ヘビー級王者ルー・テーズとの名勝負の数々では、必殺のバックドロップを河津がけで防御して、当時のファンは手に汗握ってこの攻防に熱狂した。シンプルだが迫力に満ちた名シーンとして、今でも語り継がれている。
その河津がけを「河津落とし」に発展させたのが、力道山の弟子であるジャイアント馬場だった。要するに河津がけの状態から後方へ相手の後頭部を叩きつけるバスターで、後年は馬場の十八番として、ほぼ毎試合で繰り出されるようになった。
初めて馬場が河津落としを披露したのが、全日本プロレス1973年7月13日の後楽園ホール大会。相手は同年5月24日にハーリー・レイスに敗れてNWA王座を失ったばかりのドリー・ファンク・ジュニアだった。本紙は1面で「馬場2大新殺法を完成」の見出しで詳細を報じている。
「7月13日のシングル戦で60分3本勝負をフルタイム戦い抜いた両雄は決め手を欠いたまま引き分けた。この試合で密かに開発していたとみられる2つの秘密兵器を公開した。1本目、ジュニアのバックドロップに先制されると思った瞬間、誰も想像しなかった“かわづがけ”が豪快に決まったのだ。不意をつかれたジュニアはそのままマットに後頭部を叩きつけられKOされた」
文中は“かわづがけ”だが明らかに同技を進化させた河津落としである。本紙の解説は続く。
「相撲四十八手の中にはかわづがけという決め手がある。タイミングが重要な技だけにいつでも使える技ではないが、攻守ともに適応できる。力道山は鉄人ルー・テーズのバックドロップを防ぐ決め手としてこの技を使った。その遺志を受け継いだ形で、馬場は攻撃用としてこの技を利用したのである。利き足をガッチリとフォローしておいて、首に腕を巻きつけて、脳天をマットに叩きつけるように倒れ込む。一種の脳天杭打ちだ」
往年の馬場にとって代名詞的だった技を初めて使った相手が、前NWA王者のドリーだったという点も感慨深い。2つの秘密兵器のうちもうひとつは変型コブラで、コブラと同時に相手の後頭部をグイグイ締めつけるものだった。こちらは河津落としのように定着はしなかった。とにかく旗揚げ1周年を10月に控え、馬場が新境地を開こうとしていたことだけは間違いないだろう。
しかも同年6月にはドリーの父のシニアが死去。この日の後楽園大会では追悼セレモニーが行われている。長男のドリーはもちろん、海外選手を送り込むプロモーターとしてシニアを信用していた馬場のショックは大きく「馬場は精神、物質両面で大打撃を受けた。だがジュニアは父の死を乗り越えてファンク王国再建に向かって歩み始めた。その姿は馬場の闘志にも火を点けた」と本紙には記されている。
馬場は「俺も安住を望んではいかん。前進あるのみだ」と語っている。旗揚げから9か月、全日本の未来を模索していた最中の馬場にとっては、その意欲を証明する「新必殺技開発」だったといえる。(敬称略)












